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龍馬役者絵

新発見「龍馬役者絵」血染めの下緒が語るもの
中城 正堯

 

 十月二二日の高知新聞社会面に「龍馬の役者絵見つかる 浮世絵研究でも貴重な資料」という記事が、カラー図版付きで紹介された。明治二十年、坂本龍馬の芝居が高知市で上演されたときに刊行された役者絵で、龍馬とゆかりのあった中城家(高知市種崎)の子孫が入手したとある。本稿では、新聞掲載までの経緯と、この作品誕生の社会的背景を報告したい。なお、龍馬は慶応三年九月、最後の帰郷で一時中城家に潜伏、浮世絵(源氏絵)を張り込んだ襖をながめている。
 
 作品キャプション 藤原伊之助「坂本龍馬 市川鶴吾郎」明治二十年六月十五日
            中判(276×223)版元前田齢太郎
 
役者・絵師・版元とも高知
 18回浮世絵オークション目録でこの作品を見つけ、龍馬の役者絵というだけで申し込んだ。落札でき、作品の届いたのは十月十日であった。中判錦絵で摺り保存ともよく、龍馬に扮した役者が血染めの

下緒

(

さげお

)

(刀の鞘を帯に結ぶ紐)を持ち、決意を秘めたまなざしで見つめる姿が見事に表現されている。こま絵は、夜陰にまぎれ雨の川辺を急ぐ二人の武士。

 

 画面余白に記載されたデータを見て驚いた。「御届明治廿年六月十五日 画工藤原伊之助要法寺町八十八番ヤシキ 出版人前田齢太郎種崎町百七番ヤシキ」とあり、ともに高知市内特有の町名だ。画中には「坂本龍馬 市川鶴吾郎」「応需信一(藤原印) 井手環刀」とある。市川鶴吾郎は役者名だが、これら人物は全て高知の可能性があり、早速『高知県人名事典新版』(高知新聞社 1999年刊)で調べてみた。
 

市川鶴吾郎(事典では鶴五郎 1837~1899)「歌舞伎役者 天保八年の生まれで、大坂に出て修業。門閥でないので出世はできなかったが、腕は確か。…明治十九年、共正会創立のときは会長を補佐する総後見に推された土佐の名優」とある。この共正会は、明治十九年に東京・大阪で末松謙澄が提唱し守田勘弥や市川団十郎も参加して結成された演劇改良会に準じて高知で生まれた会で、指導者は自由民権運動の論客・植木枝盛であった。 
 

藤原信一1846 1930)「浮世絵画家 本名、伊之助。弘化三年生まれ。大阪の人。初め大阪の歌舞伎役者・尾上多見蔵の門人、…師の多見蔵とともに巡業のため高知入り。明治十五年…坂本龍馬を主人公とした小説『汗血千里の駒』の挿絵を描いて評判であった山崎年信に会い、その門人となった」。たちまち上達、年信の後任に選ばれて土陽新聞の挿絵に才筆をふるい、のち黒岩涙香の知遇を得て上京、萬朝報などで挿絵・錦絵を描いた。
 

 こうして役者は高知、絵師は大阪生まれだが、ともに明治二十年当時は高知で活躍中と判明した。版元の前田齢太郎もその住所から高知在住で、この芝居の興行元と思われるが身元の記録は見つからなかった。彫師井手環の人物像は不明だが、この作品は高知で制作された可能性が強くなった。役者絵の専門家である新藤茂氏はじめ研究者は、地方の芝居上演にあわせて役者絵が刊行された事例はこれまで報告がなく、貴重とのことであった。
 
自由民権運動のシンボル

 次は、描かれた場面の解題である。血に染まった刀の下緒を持つ龍馬といえば、龍馬最初の伝記小説『汗血千里の駒』(坂崎紫瀾)の冒頭に登場する「井口村刃傷事件」の名場面である。土佐藩の上士と下士(郷士)の身分差に起因するこの殺傷事件で、龍馬は下士の一員として当事者の身柄引き渡しを断り、切腹で収拾を計る。絵は、切腹した友人の血潮に浸した下緒を手に、封建的身分制度撤廃と新しい国づくりへの決意を新たにする龍馬である。事件解決に龍馬が実際関与していたか、紫瀾の創作か、両論あったが、山田一郎氏が寺田寅彦一族など関係者からの詳細な取材を重ね、大きな役割を果たしていたことを『海援隊遺文―坂本龍馬と長岡謙吉―』(新潮社 1991年刊)で明らかにしている。
 

 作者の坂崎紫瀾は板垣退助の自由民権運動に参画、高知県下での政治演説を禁止されると民権講釈一座の座長として興行、さらに明治十六年一月から土陽新聞に『汗血千里の駒』を連載、途中入獄中断するが九月に完結する。六月には前編が刊行され、植木枝盛の書籍購入録同年の項にも「汗血千里駒第一第二」の購入記録がある。坂崎は、民権運動の活動家で、高知新聞編集長や維新史研究家としても活躍する。『日本社会主義演劇史』(松本克平 筑摩書房 1975年刊)によると、明治十五年岐阜での板垣遭難に際しては、監視期間中の坂崎に代わって同志が事件を脚色し、「東洋自由の曙」と題して高知堀詰座で上演、圧倒的好評を得た。その主役退助を演じたのが市川鶴五郎であった。
 
 この浮世絵が新発見かどうかの確認のため、早大演劇博物館や高知県立坂本龍馬記念館などに問い合わせたが、該当作品は見当たらないとの返事。そこで、高知新聞編集委員(文化担当)の片岡雅文氏に連絡、取材調査をお願いした。その結果、土陽新聞明治二十年六月二十日の記事に、「高知座に於て十二日の夜より

蓋明

(

ふたあ

)

けにて興行する狂言は嘗つて本社新聞にて江湖の喝采を博せし坂本龍馬氏一代記即ち汗血千里の駒の新仕組なれば人気頗る宜しく初日よりの木戸留めは近頃の大当り」とあり、続報で市川鶴五郎が龍馬役、植木枝盛も見物、三十日千秋楽、自由民権運動と関連した上演などが判明、記事となった。

 
 明治二十年は、板垣退助の外遊、自由党の解党などで勢いを失っていた自由民権運動が、旧自由党有力者による三大建白運動(地租軽減・言論集会の自由・外交失策の回復)によって、再度高揚した時期にあたる。その中で、「船中八策」や「藩論」に残された龍馬の民意尊重の思想が評価され、芝居上演、役者絵刊行となったのだ。刊行百二十年後に見つかったこの作品は、貴重な地方役者絵にとどまらず、自由民権運動の当時の熱気を伝え、そのシンボルとしての坂本龍馬の存在を今に印象づける絵画でもある。 
 
「浮世絵芸術155号」より

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