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錦絵誕生

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雨中美人
鈴木春信

                              

                               

                              

                                

                              

                              

                              

                              

                                                     

前回の続きで錦絵誕生の経緯を少し。
江戸も下って貞享2(1685)年、渋川春海によって初めて日本人による暦法が作られ、暦が改められました。「貞享の改暦」です。これ以降年中行事や吉凶などの歴注が統制されます。陰暦では毎年大小月が変わり、時には閏月が入ります。晦日の支払いなど日常生活に欠かせないため、月の大小だけを記した暦が普及します。粋な江戸っ子は単に数字を使うのは野暮と、趣向を凝らすようになります。さらに富裕層ではそれを年始の挨拶で交換するようになり、品評会まで催されます。その「大小の会」の中心人物だったのが旗本大久保忠舒(ただのぶ)。俳号巨川(きょせん)です。
彼は西川祐信のファンであり、祐信の直弟子だった鈴木春信を引きいれます。
江戸に戻った春信、最初は米沢町後に神田白壁町に引っ越し終の棲家とします。(時代は違いますが米沢町には歌川国直、小林清親が住み白壁町には重田蘭渓などが住んだことがあります。)
その町内にいたのが平賀源内。豊富な巨川の資金を元に二人で工夫を重ねます。彫りの天才遠藤五録、刷りの名人小川八調も加わります。その結果明和2(1765)年の年始の会に登場したのが「雨中美人」。多色摺り版画「錦絵」の登場です。巨川はその版木を版元達に売り、版元は重版し一般に売り出し錦絵は広まります。
「雨中美人」は乾してある着物に大小の月が書かれています。
明和2年の暦をもう2枚。
1枚目は女歌仙 「紫式部」。これは解り易いと思います。
今ひとつは作者不詳ですが「花売り」。小の月が隠されています。
明和2年は1,4,7,9,11,12月が小の月です。
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千葉市立美術館館長の小林忠さんは、かっての春信展の解説で春信を
「絵筆を持つ詩人」、そして「白の魔術師」と評しています。
春信は版画において上質で厚手の奉書紙を使っています。
そのふっくらとして白い地をそのまま使い、
女性の肌、梅の花、そして降り積もる雪などを巧に表現しているからです。
特に夜の闇に浮かぶ白の美しさは格別です。
多色摺りを得て、逆に白の持つ表現力、何も書かない「虚」の重さを感じさせます

今日はお彼岸の中日。
お彼岸は仏教行事ですが日本独特のものとか。
てっきり宗教的に定められていると思っていました。
しかし実際は為政者の改暦により彼岸も変えられています。
江戸時代前半まで使われていた宣明暦・貞享暦では、彼岸の入りは春分・秋分の日から数えて3日目。寛政暦では昼夜等分になるようにそのつど決められていました。
天保暦から現在のようになったそうです。

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