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2008年10月

食欲の秋

An00230652_001_l 月岡雪鼎
1768~1772

                                

                              

                                                                  

                              

                                

                              

                               

                              

                               

                              

                                

爽やかな風のもとどのような秋をお過ごしでしょうか?
芸術は勿論スポーツや旅行をお楽しみでしょうか。
そして何と言っても食欲の秋。
とは言えおいそれとは松茸に手は出ません。
昔、丹波篠山に松茸を買いに行き、馴染みの寿司屋にあった岡山の松茸と食べ比べた事があります。こんなにも違うものかと思いました。篠山の方が断然美味かったです。  (たまたま岡山のは当たりが悪かったのでしょうが)
今はこんな贅沢はできません。
秋の一日を野山で過ごした帰路の途中でしょうか。
今や高価な松茸を無造作にススキにくくりつけそぞろ歩く女性。
頭上には紅葉、肩脱ぎした下着と相まって一段と鮮やかです。
裾模様にあしらわれているのも秋の草花でしょうか。
灯篭鬢が関西で流行する明和年間後半以降の絵と見て取れます。
墨の輪郭線で強調された淡彩による奥行きのある背景は、高田敬輔の下で積んだ狩野派での修行を物語るそうです。

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愛宕神社の石段男坂

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今日の浮世絵の愛宕山からの江戸で紹介しました愛宕神社の石段男坂の写真です。
1863年撮影

「梅」

A080369p1 伊藤若冲「梅」

若冲は、濃厚で艶やかな色彩の細密描写を得意としますが、、
墨――モノクロームの世界でもその技量を発揮しました。

アートフェアでも展示したこの「梅」図。
お客様の中にも、「若冲ってこんな絵も描くのね~!」と驚いていた方も
ちらほらと。

若冲の水墨画の主題は人物、花鳥、動物等々いろいろありますが、
墨による実に豊かな表現力には目を見張ります。
濃くて強い真っ黒な墨、淡く紙にじんわりと染込んでゆくような薄墨、
若冲は、その強弱を主題によって使い分けることを徹底的に研究したはず。

墨の濃淡だけで、これだけ表現に差が出るなんて…!

対象のかたちそのものと、墨の多彩な表現力を使って描くことを
楽しんでいたのでしょう。
若冲の水墨画を見ていると、そのことがよくわかります。

ちなみに、若冲の描いた梅図はもう一点あり、現在は
京都府・天真院所蔵となっています。

梅というモティーフ、描法、落款は非常に似ていて、弊社御紹介の
「梅」も同じ頃に描かれたと思われます。

おそらく若冲晩年80歳頃の作。
歳をとってもとにかく好きな絵を描き続ける、
若冲の制作意欲はまだまだ衰えるところを知らないようです

株式会社 秋華洞

Masterpieces of Ukiyo-e from the Victoria and Albert Museum

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12 December 2008-15 March 2009

Rooms 90 and 88a, the Julie and Robert Breckman Gallery and part of the Edwin and Susan Davies Galleries
Free admission

The V&A's collection of Japanese ukiyo-e is one of the largest and finest in the world, with over 25,000 prints, paintings, drawings and books. It is not since The Floating World exhibition in 1973, however, that a substantial number have been on show at the Museum. This display will reflect the strengths of the V&A's outstanding collection, from elegant fan prints and glorious full-colour prints to artists' sketches and copyists' drawings that offer unique insights into the creation of ukiyo-e.

A further selection of copyists' drawings will be displayed in Room 45, the Toshiba Gallery of Japanese Art

浮世絵図録金賞受賞

Bilde The Lauren Rogers Museum of Art received the Gold Award in the SEMC Publication Design Competition in the Books and Catalogues entry (Medium Museum Category).

LRMA won recognition for the Museum’s exhibition catalogue "The Floating World: Ukiyo-e Prints from the Wallace B. Rogers Collection." The catalogue was published in conjunction with a special exhibition of LRMA Japanese woodblock prints as part of the Museum’s 85th anniversary celebration earlier this year.

SEMC Members Support Local and National Museum Communities

The Southeastern Museums Conference (SEMC) is an association of regional museums.  We work to:

  • Provide educational and professional development opportunities
  • Improve the interchange of ideas and information
  • Encourage respect and collegiality

The Lauren Rogers Museum of Art

http://www.lrma.org/

日仏友好150年記念

Photo

France meets Japan.

         Japonism and 19th Century French Tableware

~2008.12.7
オルセー 美術館

In 1866, wishing to embrace the revival of ceramics decorated by transfer printing, Eugène Rousseau sought the collaboration of the painter and engraver Félix Bracquemond. Bracquemond found inspiration for his animal and plant motifs (around 280), in Hokusai’s Manga (1815), Hiroshige’s Grand Series of Fishes (1830) and Taito’s Flower and Bird Paintings (1848), for his innovative, asymetric designs on plates featuring one primary image and two, usually smaller, supplementary images.

From its first presentation at the 1867 Universal Exhibition in Paris, this dinner service was very successful – and remained so. It was continued by Rousseau’s successors and produced by the manufacturers Creil & Montereau under successive company names, right up to 1938.

In 1874, at the Art and Industry Exhibition, Rousseau presented another Japanese-inspired table service, handed-painted this time. The designer, Henri Lambert, was an artist-decorator on porcelain. He, too, took inspiration from Hokusai and Hiroshige (Fifty-three Stations of the Tokaido, 1854), but from their landscapes.
From 1884 Lambert had sole responsibility for the service, mainly producing small series of decorated plates, with motifs taken from Japanese works of the time, for example Bairei’s Album of 100 birds, 1881 and Kyosai’s Drawings for Pleasure, 1881.

Tmp_c64649c020a9ee9f74b25939d65b5be Henri Lambert (1836-1909)
Plat rond, service "Rousseau-Lambert"
Entre 1873 et 1875
Faïence fine, décor imprimé et peint sous couverte
H. 35,6 ; L. 35,6 cm
Paris, musée d'Orsay
© Musée d'Orsay, dist. RMN / Patrice Schmidt

                                                                                    

Tmp_a1cc6bb61ad13db754b8eb5e3e475cd Henri Lambert (1836-1909)
Assiette plate, service "Lambert-Rousseau"
Entre 1873 et 1875
Faïence fine, décor imprimé et peint sous couverte
H. 25, 8 ; L. 25,8 cm
Paris, musée d'Orsay
© Musée d'Orsay, dist. RMN / Patrice Schmidt

http://www.musee-orsay.fr/en/events/exhibitions/in-the-musee-dorsay/exhibitions-in-the-musee-dorsay/article/la-france-regarde-le-japon-20439.html?tx_ttnews%5Btx_pids%5D=2596%2C3172%2C2598%2C2878%2C1996%2C2005%2C2036%2C2038%2C591%2C254%2C649%2C648%2C253%2C1388%2C1389%2C619%2C252%2C258%2C257%2C222%2C594%2C610%2C617%2C604%2C606%2C608%2C631%2C632&tx_ttnews%5Btt_cur%5D=20439&tx_ttnews%5BbackPid%5D=51&cHash=daa4bbe942

アートユニット「だるま商店」の浮世絵展

浮世絵で1年の出来事を振り返る

1224676097_photo 京佃煮・京菓子の永楽屋本店2階喫茶室(京都市中京区河原町通四条上ル)で11月1日から、2008年を浮世絵で振り返る個展「現代十二ヶ月絵図」が開催される。

 12枚の浮世絵は京都を拠点とし活動するグラフィックアートのユニット「だるま商店」が制作した。同ユニットは民俗学、史学などを研究・解体し、再構築するという手法で、浮世絵の再現のほか、日本髪の結髪、論文、ライブペインティング、VJなどのさまざまな表現方法の活動を展開している。京都の人気クラブ「世界WORLD」のマンスリーフライヤーの表紙デザインなども担当。永楽屋の斎田頼子さんは「だるま商店は学会に所属するなどの研究基盤を持ちながら、京都の良さを受け継ぎ、ただ守るだけではなく『守り育てる』という姿勢が見られる」という。

 今夏、祇園祭の「屏風祭」が開催された時期に同室町店でだるま商店の「鯉山屏風」を展示したことがきっかけとなり、今回の個展開催が決まった。浮世絵には「都をどり」、月ごとの花・日本髪・鳥・着物など京都の女性が愛してきた物や京都の姿を描いたという。月ごとの浮世絵に合わせ、日本で話題になったことや世界的な行事についてまとめた「今年の出来事」も展示する。

 斎田さんは「季節の生菓子や京都の甘味を楽しみながら、京都の浮世絵を鑑賞できる。味覚と視覚の両方で京都の良さを味わっていただければ」と話す。

 営業時間は12時~18時30分。第3火曜定休。開催は今月30日まで。

神戸大丸100周年

0063557 たばこ切佐七
豊国

                              

                              

                               

                               

                              

                              

                              

                                      

                              

                                                    

今日ローカルニュースで見たのですが、大丸が神戸に出店して今日でちょうど100年なんだそうです。
私が子供の頃昭和30年代は百貨店に行くのが楽しみでした。
元町の大丸か三宮のそごう。
ちょっとおめかしして出かけ、楽しみはおもちゃと食堂でのオムライス。
お土産にピロシキ。
それがちょっとした贅沢の時代でした。

Photo 大丸の創業は、享保2年(1717)京都伏見で下村彦右衛門正啓が大文字屋呉服店として開店したのが始まりとか。
後大坂心斎橋の松屋を引継ぎ、名古屋で正式に「大丸屋」と名乗る。
1743年(寛保3年)、江戸の大伝馬町に進出する数年前からその準備。
○に大文字の商標を白く染め抜いた萌黄地の派手な風呂敷を使って名前を広めていたとか。
この辺りは後に喜多川歌麿、写楽を世に出す蔦屋重三郎が店を構える所です。
その商標ですが、正啓が浮世絵の柱絵の暦から思いついたとか。

                            浪花百景 松屋呉服店 芳瀧画
丸に月の大小を見て、「こいつは何でも大にこすはなし」と決めたそうです。
もっとも大丸の正式資料には「○は宇宙を表わし、大は一と人の組み合わせ云々」、とあります。
大丸は流行を取り入れるのが巧かったそうで大層繁昌、ライバルの越後屋(三越)とは現在も競い合っています。
画像3の番付では、堂堂大関に座っています。もちろん首引きに強いからではありません。
大丸は年末に慈善事業を密かに行なったりもしたようですが、有名なのは 傘の貸し出し。
お客だけでなく急な雨に困っている通行人にも貸したそうです。
役者絵にもその様子が描かれています

持丸俳優力量競 三代歌川国貞(四代歌川国政)

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水墨画の如き天童広重発見される その弐

20081021zz 箱根描いた歌川広重の肉筆画見つかる
     

11月7日から川崎・砂子の里資料館で初公開


 江戸時代の浮世絵師・歌川広重の没後百五十周年に当たる今年、晩年の代表作の一つといえる箱根を描いた肉筆画が見つかり、十一月七日から川崎市川崎区の川崎・砂子の里資料館で初公開されることになった。十二月十三日まで。

 

春の情景を描いた「箱根二子山」と、秋の芦ノ湖と神社の鳥居を描いた「箱根権現社」のそれぞれ幅三十センチ、縦九十センチの双幅の掛け軸。

 静岡県内のコレクターから相談を受けた市川信也那珂川町馬頭広重美術館学芸員によると、山形の天童藩に依頼され一八四九~五一年ごろに筆を振るったとされる「天童広重」の一つで「これまで存在自体把握されていなかった作品」(同学芸員)。同学芸員を通じて購入した斎藤文夫館長は「後世に残る名品を記念すべき年に公開できるのはうれしい」と話した。

画像
発見された広重の肉筆画「箱根二子山」(右)と「箱根権現社」について、広重作の決め手となった拝領箱を手に思いを語る斎藤館長

神奈川新聞 2008年10月21日

吉原傾城新美人合自筆鏡

吉原傾城新美人合自筆鏡は現在開催中の国立国会図書館開館60周年記念展で展示されています。また同展の電子版と大英博物館のハイライトページでも解説されています。

K203l 吉原傾城新美人合自筆鏡 東家 九重

北尾政演画 江戸 蔦屋重三郎 

天明4(1784)序刊 

1帖 35.5×24.7cm

 

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                                                     北尾政演は山東京伝の浮世絵師としての名。京伝は若くして北尾重政の弟子となり、作家となるより早く浮世絵師として活躍していた。本書は、大判錦絵2枚続の図7枚からなる画帖。前年出版された錦絵集「青楼名君自筆集」に四方山人(大田南畝)の序文、朱楽菅江の跋文を加えて制作しなおされたものとされる。太夫2人と新造等、数名の吉原の遊女を描き、太夫の自筆とされる和歌、俳諧、詩などを配している                                                                        

(

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Ps204981_l_2 ひなつる てふ山

Height: 275.000 mm
width:  380.00mm

Edo (Tokyo), Japan
Edo period, AD 1784

From the album Yoshiwara keisei shin bijin-awase jihitsu kagami ('A Contest of New Yoshiwara Courtesans with Examples of their Calligraphy')

                                                                                                                                                                    

                                                    

The artist Kitao Masanobu (1761-1816) also wrote novels under the pen-name Santō Kyōden. He established himself as the chief guide and a leader in taste in the exclusive world of the high-ranking courtesans of the Yoshiwara pleasure quarter of Edo.

The popularity and influence of the pleasure quarters were at their height in the 1770s and 1780s. Many artists, including Harunobu, Kōryūsai, Shigemasa and Kiyonaga competed with each other in producing sumptuous tributes to the courtesans. These took the form of colour woodblock prints, illustrated books and albums.

This album, designed by Masanobu, was published by the ambitious and energetic publisher Tsutaya Jūsaburō. It was an attempt to surpass all competitors. The large format is twice the size of normal single-sheet prints, and the colour-printing is of outstanding complexity and richness. Each print also includes waka poems, reproducing the actual handwriting of the women depicted.

In this print, Hinazuru is shown modelling one of her fine New Year kimonos. Chōzan is seated at an elegant Chinese-style writing-table, checking her calligraphy primer and a copy of the classic Eiga monogatari ('Tales of Glory') before writing her New Year verses of greeting on the poem slips before her.

http://www.britishmuseum.org/explore/highlights/highlight_objects/asia/k/kitao_masanobu,_the_courtesans.aspx

江戸時代の参詣料理いかが 

江戸時代の生活振りの一端を伺えます。                            でもこれで庶民的なんですか。江戸時代もっとつつましいと思ってました。         キチジはキンキのことらしいです。 

20081019012jd  東北歴史博物館で開催中の特別展「塩釜・松島―その景観と信仰」に合わせ、江戸時代の塩釜神社参詣者が味わった料理が復元され18日、塩釜神社で試食会が行われた。松島湾の海の幸を生かした料理に、当時の人々のグルメの旅がうかがえる。

 料理は1747年の1月6日朝、仙台肴町(現在の仙台市青葉区大町付近)から講を組んで参詣した町民23人に振る舞われたという。神社の神官の記録を基に、仙台市の料理店「銀兵衛」の土井明調理長(53)が半年かけて、当時の調味料などを調べて再現した。

 献立はカモ肉の塩漬けを使った「せんば煮」や、キチジの浜焼き、アワビをみそで煮た「こくしょう」など全10品。

 伊達政宗が食べた献立を1987年に再現したことがある土井調理長は「殿様の御膳(ごぜん)に比べると庶民的だが、素材のうま味を生かした献立は予想以上においしかった」と話した。

 博物館の塩田達也研究員(39)は「当時は生ガキなどは塩釜に来ないと食べられなかった。仙台の人は塩釜詣でで参拝と地産地消の食事を楽しんだのだろう」と当時の状況を解説する。

 銀兵衛は20日から11月末まで、復元した「せんば煮」などを特別メニューとして出す。参詣料理全体の試食会も10月27日に会費6000円で開く。連絡先は銀兵衛022(265)3636。

2008年10月19日日曜日 河北新報

雛形若菜初模様を凌ぐ

Photo 吉原傾城新美人合自筆鏡

濃紫 花紫

北尾政演

                                                                  

                                                                

                                                                

                                         

昨日の「美の巨人たち」ご覧になられましたか?
NHKスペシャルの国政、今回の礒田湖龍斎。様々な絵師が注目されるようになりましたね。
この「雛形若菜初模様」シリーズの噂話を。
関わった絵師は礒田湖龍斎と清長、版元は老舗の西村屋与八(永寿堂)に新興の蔦屋(現在のTUTAYA)が10点程関わっています。
実はこの話を企画したのは蔦屋の方でしたが、当時錦絵の出版株を持っておらず途中でおろされ苦い思いをしました。その悔しさをぶつけたのが「吉原傾城新美人合自筆鏡」だというのです。
事前に吉原のガイドブックである「吉原細見五葉松」に広告を出し、100枚続きを正月二日に発行とぶち上げました。してその中身は吉原の名妓とその衣装、並びに自筆の詩を添える物。
現存するのは7枚だけですので100枚は誇大広告だったようです。
しかしなかなか好評だったのか、蔦屋は翌年7枚を一括袋に入りの画帖仕立とし、
四方山人の序、朱楽漢江の跋を加えて出版します。
絵師の北尾政演は山東京伝の画名ですので、凄い顔ぶれです。

Photo_4 ひともと たか袖 

                            

                

                

                    

Photo_6
花(はな)の色(いろ)をうつせるものはそのにほひをゑがく事あたはず
月(つき)のしろきを後(のち)にする者(もの)は色明(あき)らかなる影(かげ)をうる事(こと)かたし
とはからさえづりのから言(こと)にして鳥(とり)がなくあづま錦絵(にしきゑ)柳桜(やなぎさくら)
をこきまぜて都(みやこ)の春(はる)の玩(もてあそ)び物とし千枝(ちえだ)つねのりも及(をよ)びなき
時勢(いまやふ)の粧(よそを)ひをつくせりわけて姿(すがた)もよし原や二(に)のまちならぬ
いつゝの町に名たゝる君がかたちをうつしそれがおの/\自(みづか)らの水茎(みつくき)
の■をさへそへたれて物いふ花の匂(にほ)ひをふくみ晦日(みそか)の月の明かり
なるが如く見るに目もあやにもときめき魂(たましゐ)は四手駕(よつてかご)とゝにとぶ
心地し身(み)は三蒲団(みつふとん)の上にあるから疑(うたご)ふかくうつくしきうつし絵には
僧正(さうじやう)遍昭(へんぜう)もいたづらに心を動(うご)かしつべくつたなからぬはしり書には
吉田兼好(よしだのけんこう)もつれ/\をなぐさめざらめや因(より)てこれがはしつかたに其
ことはりをかきつけよと五葉(ごはふ)の松の陰(かげ)たのむ蔦(つた)のから丸か
求(もとむ)るをいな舟のいなといなまんもおこがましければ猪牙舟(ちよきふね)のちよきり
ちよとつくりいでゝたちならびたる中の町さかりの花のかたはらと
みやま木とも/\ずつと深山(みやま)の山の手(て)から

  こは/\筆をふるふにこそ

天明四のとし辰初春 四方山人書

クリスティーズ

オークションの詳細がHPにアップされました。

11月6日、11日両日に出品されています。                           北斎画の巻物初めて見る作品です。                               このオークションの紹介する英文を読んでもどの作品のことかわからなかったのですが、そのはずですね。
吉原と大坂下りの曲馬と隅田川。内容もよく理解できません。
烏亭焉馬は五代目団十郎が贔屓で立川談州楼とも称していました。

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http://www.christies.com/LotFinder/searchresults.aspx?intSaleID=21543#action=refine&intSaleID=21543&sid=db829301-08c8-42bd-99dd-7d6bcad4635d

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Lot Description

Katsushika Hokusai (1760-1849)
Signed and dated Kanji Bunka ninen kinoto-ushi shigatsu Shaka no umareshi nanayo no hi, Toto kokkei sakusha Tatekawa oite Danshuro, rokujunii o Utei Enba gijutsu, sealed Enba and signed Utei Enba oju oite Danshuro...Hokusai sekiga, sealed Gakyojin
A hand-painted scroll depicting a panoramic view of the journey along the Sumida River from the Nihonbashi Bridge to the Yoshiwara, concluding with a depiction of a party where two men are waiting to eat while two others are being entertained by four courtesans in a room decorated with a screen depicting cherry blossoms, a young attendant kneeling in front of another man who is lying on a pile of futons smoking a pipe
28.5cm. x 633.5cm.

Special Notice

No VAT will be charged on the hammer price, but VAT at 17.5% will be added to the buyer's premium which is invoiced on a VAT inclusive basis.

Pre-Lot Text

THE PROPERTY OF A EUROPEAN FAMILY

Lot Notes

The inscription indicates that the scroll was commissioned by Utei Enba and painted by Hokusai at the Danjuro (establishment). Utei Enba, an old man of 62 years and composer of comic writings at the Danjuro in Tachikawa, signed the painting in the 4th month of 1805, the day of the seventh night when Shaka (the Historical Buddha) was born.

Utei Enba was born in 1743 with the family name Nakamura Hidenori. He was a carpenter by trade, the owner of a shop Izumiya Watsuke which sold tabi [socks] and in his spare time was the leader of the Mimasu Ren, which functioned both as a fan club of the actor Ichikawa Danjuro and as a kyoka poetry group, where he wrote under the name of Nomi Chonagon Sumikane, a name which was composed of the tools of his trade: nomi [chisel], chona [adze] sumikane [carpenter's square]. In 1783 he had a great triumph with a comic monologue at the Takara awase no kai (a humorous competition among various kyoka clubs), and this success led him to form a new group called the Hanashi no kai [Story-telling Group] specialising in comic narrative where he used the name Utei Enba and became the leading practitioner of rakugo (comic recitals where the performer plays two or more characters) and also achieved a considerable degree of literary fame when he published his book Rakugo rokuji [The Six Meanings of Rakugo].

The style of the composition shows an affinity with the techniques used in Toto meisho ichiran [Famous Places in the Eastern Capital at One Glance] published in 1800, Miyakodori [Birds of the Capital] published in 1802 and Ehon Sumidagawa ryogan ichiran [The Illustrated Book of Both Banks of the Sumida River] published c. 1803. This was during a period in which Hokusai was experimenting with perspective as seen from viewpoints of differing heights and attempting to raise the horizon and thus increase the depth of the view and at the same time giving himself the opportunity to depict finely drawn and relevant characters in the foreground.

「美の巨人たち」  

急ですが本日10月18日の「美の巨人たち」
礒田湖龍斎 浮世絵「雛形若菜初模様」。
遊女のお正月の新作衣装に焦点を当てたシリーズ。
いわば江戸時代のファッション誌。                                 

「雛形若菜の初模様 四つ目屋内 かほる 梅の しげの」

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日本は古来左側通行

Sc168062fpxobjiip1 源氏香 関屋
三代 豊国

                                                                     

                                                                     

                                                                     

                                                                     

                                                                     

                                                                     

                                                                     

                                                                                                                                                                                                                                                                                                         

先日、大宰府条坊跡発掘現場で牛車の轍跡などが見つかったと報道されました。
牛の蹄の跡から左側通行と推定されています。
古来左が右より上位との思想が反映されているそうです。

古代大宰府に“交通ルール”!? 
     牛車と人 分かれて通行 奈良時代 道路にわだち跡

 福岡県太宰府市教委は8日、同市都府楼南5丁目の大宰府条坊跡発掘現場で、わだち跡のある奈良時代(8世紀)の条坊道路を発見したと発表した。わだちは路面の中央と左右の路肩に3本の筋を引くように見つかり、同市教委は「二輪の牛車(ぎっしゃ)などが道路の左右に分かれて通行していたと考えられ、一定の交通ルールが既に確立されていたのではないか」と分析している。
 発見された道路の幅は約3メートル。路面には縦方向にいくつもの溝が残され、路面中央と左右の路肩に集中している。わだちとわだちの間は1.0‐1.2メートルで、往来した牛車などの車輪間の幅が推測できる。
わだちの深い部分は10センチ以上も地面に食い込んでいる様子が分かり、牛とみられる足跡も多数残されている。
 路肩の両側には側溝跡(幅2.0‐2.5メートル、深さ50センチ)も見つかった。片方(西側)の側溝にはわだちはなく、人や牛の足跡だけが見つかったことから、「荷物を運ぶ車両は道路を通り、それ以外の人や牛は側溝を歩いていたのではないか。車両と歩行者を分離していたとも考えられる」(市教委)という。
 大宰府条坊は、大宰府政庁を北端の中心に置き、碁盤目状に道路を整備した約2キロ四方の計画都市。
今回の発掘現場は、条坊の南端に近い、中央より約200メートル西側の地点。発見されたのは南北に走る道路に当たる。
 市教委は「条坊道路が高い道路機能を備えていたことが確認できた。古代大宰府の交通事情は文字による記録がないだけに今回の発見は貴重だ」としている。
=2008/10/09付 西日本新聞朝刊=

源氏物語「関屋」は、光源氏と東国より帰京する空蝉が偶然逢坂の関で出会うところから始まります。
光源氏は願ほどきのため石山寺に参詣する途中です。
その行列を見ようとする人達で道中混雑します。
空蝉の一行が道を譲るべく休んでいる所を光源氏が目に止めます。
旧暦九月の末紅葉の頃です。
二人には一夜限りの秘めし思い出があります。

画題の源氏香。組香(=何種類かの香りを組み合わせてその香木の香りを嗅ぎ当てる遊び)の一つです。
その組み合わせの名称に源氏物語の各巻を符牒に使っています。
詳しくは「源氏物語の匂ひ」参照
http://homepage2.nifty.com/ukifune/Genji/ggenjiko.htm

C0005534遊女聞香図
宮川 長春 
天和2年(1682年) - 宝暦2年11月13日(1752年12月18日))
肉筆画専門の浮世絵師。

吉原の大店、松葉屋の花魁瀬川も源氏物語を隠語にしていました。
間夫は帚木(ははきぎ)。これは新古今集にある坂上是則の
「園原や伏屋に生ふるははき木のありとは見えて逢はぬ君かな」から。
遣手(やりて)は篝火(かがりび)、来なくなった客はずばり雲隠。

水墨画の如き天童広重発見される 

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「東海道五十三次」などの鮮やかな風景画で知られる浮世絵師の歌川広重が、人気の絶頂期に肉筆で描いた水墨画のような珍しい浮世絵が見つかり、専門家は広重の新たな一面を伝える貴重な資料と注目しています。

見つかった肉筆画は、対の掛け軸に描かれた長さ90センチ、幅30センチほどの作品です。東海道の箱根にある二子山とお玉ヶ池、芦ノ湖の風景が、広重の作品としては珍しく、水墨画のような抑えた色調で描かれています。絵は静岡県内のこっとう店で売られていたもので、去年購入した男性が専門家に鑑定を依頼したところ、広重の肉筆と確認されました。鑑定では、この絵が描かれたのは広重が人気の絶頂にあった50代前半のころと見られ、山形県の当時の天童藩から特別に注文を受けて描いた「天童広重」と呼ばれる作品群の1つだということです。鑑定した栃木県の那珂川町にある広重美術館の市川信也学芸員は、「これまで見つかった広重の肉筆画の中でも特に筆遣いがていねいで、墨を多用して水墨画のように描かれている点でもきわめて珍しい。この時期の広重を研究する上で貴重な資料だ」と話しています。見つかった肉筆画は、来月7日から川崎市の「川崎・砂子の里資料館」で展示されることになっています

動画ニュース

http://www3.nhk.or.jp/news/k10014783051000.html

浮世絵を所有する企業 その2

マスプロ美術館
http://www.maspro.co.jp/museum/ukiyoe.html

横浜波止場ヨリ異人館之図
広重(III代)

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Asian Art Week at Christie's

来月11日に行なわれるオークションに浮世絵が出品されるようです。
まだChristie's のホームページでは詳細が明らかにされていませんが。
2008.11.11 2:00pm
King Street
Japanese Art and Design
A private European collection of prints comes fresh to the market, having not been seen for over 50 years, it includes fine examples by Suzuki Harunobu (c.1725-1770), Kitagawa Utamaro (c.1753-1806), Torii Kiyonaga (1752-1815) and Utagawa Hiroshige (1797-1858), for example a fine impression of Hiroshige's Moon Cape, from the series One Hundred Views of Famous Places in Edo, estimate £4000-6000. In addition to this collection is an unusual work, an Okubi-e portrait of Yaozo, by Toshusai Sharaku (active 1794-1795) (estimate: £25,000-30,000). Sharaku is widely considered to be one of the great masters of woodblock printing in Japan, despite having an extremely short period of activity. He designed portraits of the Kabuki actors and this work depicts the actor Ichikawa Yaozo III as Tanabe Bunzo in the play Hanayame Bunroku Soga performed at the Miyako-za in the fifth month of Kansei 6 (1794). Elsewhere, there is a Yoshitoshi print album (One Hundred Aspects of the Moon) (estimate: £20,000-25,000). Other key examples include a superb hand-painted scroll by Hokusai, depicting an interior scene and a panoramic view of the journey along the Sumida River from the Nihonbashi Bridge to the Yoshiwara (estimate: £40,000-60,000). The inscription on the scroll indicates that it was commissioned by Utei Enba, a writer of comic verse, and painted by Hokusai at the Danjuro establishment

Utamaro Revealed

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UK author Gina Collia-Suzuki is set to launch the first book to focus on the subjects and themes depicted in the woodblock prints of 18th century Japanese artist Kitagawa Utamaro.

Bristol, UK (PRWEB) October 11, 2008 -- Beautiful courtesans parading with whitened faces, star-crossed lovers sacrificing everything to be together, and dashing heroes fearlessly laying down their lives for the sake of honour. Utamaro's prints have it all. The characters who appeared in Utamaro's works captured the imaginations of the people of 18th century Japan, and they are set to do the same amongst modern readers following the publication of this new book; one of only a handful of in-depth studies written in English about the artist, and the only one to focus specifically on the subjects depicted.

Kitagawa Utamaro (1753-1806), who produced in the region of 2,000 woodblock prints during his lifetime, is one of the most well-known and admired figures in the history of Japanese art. Renowned throughout the world for his portraits of beautiful women, his influence upon the work of Western artists has been beyond measure.

The author, an artist in her own right, has been a collector of Japanese woodblock prints, and more specifically those of Utamaro, for many years. At the age of sixteen she was taken under the wing of world-renowned Japanese art history scholar Jack Hillier, and has since devoted more than two decades to studying Japanese prints.

"You can't help wondering why the Mona Lisa is smiling," said the author, "when you look at a painting you want to know more about the artist's subject, to make a connection, and for me it's always been the same when looking at Japanese prints. They are incredibly beautiful things to look at, but they also tell a story, often about real people, sometimes humorous, sometimes tragic. That's always fascinated me."

"Utamaro Revealed", published by Nezu Press, with a retail price of £22.48, will be launched officially on October 25th 2008. Further details are available from the official web site at: http://www.utamarorevealed.com

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愛宕山からの江戸

496919616_23 「東都名所見物異人」
五葉亭貞秀

                                 

                                 

                                 

                                 

                                 

                                 

                                 

                                 

                        

                                                   10月12日の月は旧暦9月の十三夜。ご覧になりましたか?
兎の尾っぽは欠けていましたが、冴えて明るい月でした。
江戸時代、旧暦八月の十五夜を見てこの十三夜を見ないのを片見月と呼び、縁起が悪いとしてきました。何故かはよく判りませんが、 江戸時代の縁起かつぎや迷信は単なる駄洒落な物も多く、そう大した理由では無いかも知れません。これも例えば形見、片身とか。
地名でも大阪はかって小坂だったのを、小を大に替え坂の字は土に反るのでよくないと阪に。富山も元々は外山だったそうです。
富山県の氷見市、蝦夷防備の狼煙を見る所から「火見」。それがためではないでしょうに火事が多いと「氷見」にしたとも言われています。
Sc136468fpxobjiip1 火事といえば我がご近所人丸神社も火防の霊験もあると信じられましたが、それも火止まるからですね。学問はともかくとても柿本人麿に火事を防ぐ霊力があるとは思えません。 (右画像 「百人一首之内 柿本人丸」 国芳)
同じようなのが愛宕神社。
主祭神の火産霊命(ほむすびのみこと)を産むとき伊邪那美神が火にまみれた。そのため仇子、熱児から愛宕となり火を鎮める神となったとか。
愛宕山、京都の愛宕山の標高924mに対しそれを擬えた江戸は26メートルしかありません。
しかし平坦な江戸では見晴らしが良く、幕末期に江戸に居た外国人に最も人気のあった江戸名所です。
愛宕神社への石段男坂は「出世の石段」と言われています。
その逸話の主は三代将軍家光と讃岐生駒藩の家臣の曲垣平九郎。
詳しくは講談「寛永三馬術」でお楽しみください

 
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愛宕山山上からの江戸パノラマ写真 Felice Beato, 1865 or 1866.

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撮影者: 日下部金兵衛

死絵

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国芳

                                                                  

                                                                

                                                                

                                                                

                                                                

                                                                  

                                                                  

                                                                

緒形拳さんが亡くなりました。
肝臓ガン、亡父もそうでしたが痛みが少ないためギリギリまで頑張ってしまうようです。
「キリギリス」が印象的に残っています。渡辺淳一の「少女の死ぬ時」のドラマ化。
当直先の病院で少女の緊急開胸手術、手を入れ直接心臓マッサージをする。
はたして再び鼓動を始めるかどうか。いつまでそれを続けるか。
枕元に1匹のキリギリス、それが鳴いたら止めよう。
そう決める外科医を演じてました。

江戸時代、人気の歌舞伎役者が死ぬと、訃報と追善をかねて死に絵が出版されました。
トップ画像は三代目板東三津五郎、五代目瀬川菊之丞死絵。
「南無阿弥陀仏」の文字を染め抜いた着物で三途の川にたたずむ姿は、歌舞伎のお半と長右衛門の道行きの見立てになっています。
亡くなったのは天保二年極月二十七日と天保三年正月七日。
命日が近いだけでなくこれが二人の当たり狂言かと思っていました。
が、そうではなかったようです。

Sc165860fpxobjiip1 馬琴によると、この二人の死絵は80種類余り出れ、36万部ほど売れたそうです。   (右の画像は五渡亭国貞)
江戸時代では奇跡的数だと思います。特に武家の奥向きに大流行した様子。
三代目板東三津五郎は初代三津五郎の子供で、夫人は先代の娘。
その嫁と別れて一緒になったのが、元義太夫語りのおでん。 おでんは三津五郎と一緒になるまでに、既に数人の男と深い中になっていました。
その癖は結婚後も変わらず、舞台関係者等と関わったようです。
そして三代目を激怒させたのが、16歳年下の菊之丞との関係。
二人はおおぴっぴらに鞘当を繰り返し、世間の注目を集めることになります。
菊之丞の東北巡業に駆け落ち同然に同道したりしますが、おでんは菊之丞だけでも収まりません。
そうこうする内、三代目が病死、そのすぐ後に菊之丞も三十一歳で急死。          それが死絵の売れ行きに繋がったようです。
人気役者のスキャンダルがマスコミを賑わすの現代だけではないようです。
売れたのは死絵だけではありません。
おでんの男性遍歴が似顔絵入りの番付になっています。
少し前似たような話をどこかで聞いたような気もしますが。
あまりの人気に幕府が発禁にしたほどです。
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菊の節句

Sc20199fpxobjiip1 重陽の節句 

歌川豊広

                              

                              

                              

                              

                              

                              

                              

                              

                                                     

                               

                               

                              

                              

                               

                                                     

                                                     

明日10月7日は旧暦9月9日、菊の節句です。
先月NHKのラジオ番組で七夕と菊の節句だけは旧暦でと、訴える方がいらっしゃいました。
ひと月前はまだまだ暑かったのを覚えています。
今日この頃でもまだ菊には早いような陽気です。
旧暦で気になる事が1つ、誕生日です。現代の2月29日生まれの人は気分的にどうなんでしょう、 誕生日が4年に1回で。
旧暦では月の大小が年によって変わりました。10月30日生まれ、翌年10月は29日までなどということに。閏月もあります。ちょっと調べてみました。
貞享暦になった1685~1872年に閏月は64回ありました。
一番多い閏4月が9回、最少は閏10月、12月で3回づつです。
閏月に生まれると一生誕生日が来ない人も多かったのでは。
先日読んだ本によるとこれでよかったのだそうです。
かっては年齢は皆数え年でしたから生まれて1歳、正月を迎えて1歳年を取る。大晦日に生まれるとあくる日正月に2歳になりました。
江戸時代は庶民に誕生日の感覚はなく、この社会の一員になって何年かが大事だったそうです。浮世絵師の経歴でも生年月日が不詳で命日だけが判っている人が結構いますね。

トップ画像は歌川豊広、歌川派の祖豊春の門人ですが、もっぱら広重の師匠として取り上げられる事が多いようです。もっとも広重は最初豊国の門をたたきましたが、定員一杯で断られやむなく豊広に入門したようです。
その豊広は美人画や挿絵に高い評価を得ています。
挿絵では式亭三馬、曲亭馬琴と組み多くの作品を残しています。
四ツ谷伝馬町の版元の住吉屋政五郎は馬琴で多くの利益を得ていまましたが、さらに京伝で儲けようと「浮牡丹全伝」を九百部摺ります。しかし全く売れずに大損します。
京伝の余りの遅筆と豊広の細密さや彫の手間等で大変な経費がかかったそうです。
その豊広の挿絵、滝沢馬琴の「松染情史秋七草」から 1枚。

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石焼きいも~

Sc126836fpxobjiip1_2 びくにはし雪中
二代広重



                                

                         

                         

                         

                         

                                                     

                              

                              

                               

                                                    

                                                    

前回に続いて広重の作品から数字のお遊びを。

トップ画像は江戸百冬の部の一枚。山くじらの看板が目を引きます。
右手に小さく見える十三里の看板は焼きイモ屋さんです。
蜀山人の狂歌に
 なにはにありし八里半といへるやきいも江戸に流行しけるに

四里四方茶粥の腹になりはててみな八里半九里の焼いも

とありますので、元々は上方で始まったしゃれのようです。
栗に近いおいしさだから八里半、それが江戸に来てから後に、小石川白山前の店が九里より(四里)うまい十三里としたそうです。
甘藷で有名な川越までの距離ともいわれています。

同じく十三屋は櫛屋さん、唐櫛屋さんは十加えて二十三屋。

十七屋さんもあります。飛脚です。十七夜の月は立待ち月、たちまち付くのしゃれです。
江戸と大坂を結んで公文書を運ぶ「継(つぎ)飛脚」が出来たのが元和元(1615)年。
その後、大名の信書を運ぶ大名飛脚が出来、これは京都・大坂・江戸の三都を結ぶことから三都飛脚、 あるいは江戸と大坂を月に三度往復するので三度飛脚ともいいました。
さらに、寛永16(1639)年ごろ大坂に民間の飛脚業者が生まれ、これを町飛脚と呼びました。
並み飛脚で大坂・江戸間は10日、定六と呼ばれる速達便で6日かかりました。
さらに速い仕立便は江戸と大坂を三日で駆けたといいいます。
広重の赤坂には飛脚と月が描かれています。芭蕉の
「夏の月 御油より出でて 赤坂や」
が頭にあったのでしょうか。                                    赤坂と隣の宿場御油とは2km足らずしか離れていません。

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数遊びではありませんが、しゃれで付けた屋号で有名なのに「春日野」があります。お汁粉屋さんです。汁よしのしゃれです。
「昔、男、初冠して、ならの京、春日の里に、知るよしして狩りにいにけり」。       (伊勢物語 第一段)

画像2「東海道五十三次之内 赤坂」
画像3「東海道 三十六 五十三次之内 赤坂」

嘘八百

Sc134826fpxobjiip1 「江戸高名会亭尽 柳ばし夜景 万八」
広重」

                         

                             

                               

                         

                                                     

来月3日は江戸文化歴史検定ですね。
受験される皆さん、準備進んでいらしゃいますか。
HPを見ると問題例に「四文屋」がでてましたね。元祖百円均一の店が正解。
明和5(1768)年、四文銭が発行され、商品の値段は四の倍数、つまり八文、十二文、十六文が主流となりました。 四文屋はこうした時流に乗って急増したようです。煮肴(にざかな)や、煮しめ、おでん一串など、なんでも四文均一で売った所、 面倒くさいことが嫌いな江戸っ子は明朗会計の店として大いに歓迎されました。
実はそれより前の享保8~9(1723~24)年に小間物全般を扱った「一九文見世」ができています。その他将棋の駒、三味線道具、鼻紙入れ、緒締(おじめ)、盃、塗り物、煙管、剃刀、人形、墨、筆など日用品から趣味のものまで様々。売れるものは何でも置いたそうです。さらに 「三十八文見世」が登場しましたが、何故か名称は「一九文見世」のまま。やはり値上げのイメージを避けるためでしょうか。
「あぶりこでも金網でも三十八文、焙烙(ほうろく)に茶ほうじ添えて三十八文、銀のかんざしに小枕(くり小枕)をつけて三十八文・・・」と呼び声を掛けたと「式亭雑記」にあります。

三八というと「嘘の三八」なる言葉があります。
少し意味あいは違いますが、「千三つ」なる言葉も。                      タレントではせんだみつお、不動産関係などを千三つ屋とも言いますね。
もう一桁増やして万八とも言います。やはり三、八ですね。
画像の万八は万屋八郎兵衛の料亭、貸し座敷。大きな座敷があり、書画会、舞踊のおさらい等によく利用されたようです。
「その頃月ざらいですと、八幡様の山の松本ですることもありましたが、大ざらいですとなりますと両国の中村楼か万八と決まっていました」(吉原夜話)
当時は柳橋の北側まで広く両国と呼んだようです。中村楼は川向う、正に両国です。

書画会は万八息子どこか行き 
万八でおごりやしたと伊勢屋云い

古川柳ではどうしても嘘のイメージがついて廻るようです。
伊勢屋はケチの代名詞だそうで奢るわけがないとか。何故ですかね。

安政5(1858)年9月6日、広重がコレラで亡くなりました。
今年は10月4日が命日です。広重は実直な人だったようで、締め切りの期日もきちんと守ったと記されています。

Morisada

 「浄る理町繁花の図」 広重

図中の左上は味付けされた油揚げに、味付けした豆腐殻を入れ、一切「四文」で「志の多巻」として商いをしている所です。天保の大飢饉が過ぎ天保末年頃油揚げを袋形にして椎茸、干瓢を刻み、飯に混ぜ、「稲荷ずし」として屋台で売り出されたとされています。この図は「稲荷ずし」の原点が表現されています

神田志の多寿司HPより

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