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西村屋与八

Sc147355fpxobjiip1 「七十一翁永寿堂日比野」 

(西村屋与八)
初代 豊国

                              

                                

                               

                                       

                                 

前回取り上げた「百人一首 うばがゑとき」は当初西村屋与八「永寿堂」から出版されます。1835年の春に出た、「薊花恋苧車」(あざみのはなこいのおぐるま)の巻末に広告が打たれます。そして「小倉百人一首」成立600年を記念して、5~6月頃に最初の5点が出版されたのではと考えられています。その後版元の印が、読みは同じですが「栄樹堂」に変わって22点が刊行されています。
これは版元の伊勢屋三次郎が引き継いだからのようですが、その間の理由は定かではありません。北斎がほとんどすべての版下絵を完成させて望んだこの企画は、完成することなく終えてしまいします。

トップ画像のバックは初夢のおめでたいものを並べただけのようですが、この富士山は北側からの眺めで西村屋と富士講との関係を表わしているとも言われています。富士山の北側を開いたのは富士講の衆です。
「富嶽三十六景」も西村屋の業績のひとつなのですが、富士講の信者を購買層に予定して売り出したそうです。そして北斎と富士講の繋がりも浮かんできます。

西村屋与八は当時有力な版元の一つで、特に清長と組んで浮世絵の美人画を席巻していました。後には当時23歳で売り出し中の豊国の獲得にも成功します。馬琴によると西村屋と云う人は「版元は作者画工等の名を高くすればその為に引き札するに似たり、かかれば作者まれ画工まれ印行を乞うべきものなり吾は決して求めず」。作品を出したかったら作者の方から頭を下げに来い。こちらから頼むべき筋ではないと考えのようです。
蔦屋がスポンサーとなって歌麿や写楽を世に出したのとは逆の考えのようです。
そんな西村屋が企画の途中で消えていきます。実は与八は鱗形屋というこれまた有力版元の次男で、西村屋へは養子で来ています。その鱗形屋も使用人の不始末をきっかけに没落していきます。
当時版元は営業をするための問屋株と、個々の作品の出版権にあたる板株を持っての商売でたが、決して保護されていたわけではありません。
商売の難しさは昔も今も変わらないようです。

05001083l034 「絵本庭訓往来」 北斎画
右奥が与八

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