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2011年8月

大河への道 その5 イヨーっ !

忠敬は地図の完成を見ることなく亡くなります。
その遺志を継ぎ完成させたのは高橋景保。
後に日本の測量を強引に試みたイギリスは伊能地図を示され、その精度の高さに驚き引き下がります。かって景保が予見したように伊能地図は日本を救いました。
私が佐原にお邪魔したのが4年前、いつか伊能忠敬の噺を作ろうと思いました。
しかしこれほどの方の噺が1年でできるわけはございません。
2年目も未だ力及びません。
3年目になると無理だ、と思いました。
それが4年目長崎でシーボルト記念館を訪ねたり、ちょっとした事がヒントを与えてくれたり。
色んな偶然が重なり何とか形が見えてきました。
しかし落語に出てくるのは我々同様という輩です。そんな大した人物は出て参りません。
例え登場して日本のために、とやっても「まあその前に一杯飲んで」
となってしまうのが関の山です。
落語の手にはあいません。どちらかと言うと講談の世界です。
そんな紆余曲折の末がこの1月の公演でした。
先程お見せした白地図は2010年国土地理院作成の物です。
伊能地図が見事に重なるのをご覧頂きましたが、1月とは様子が違っております。
皆様ご存知のように3月の大震災で日本の形は変わってしまいました。
陸前高田等にお邪魔させて頂きましたが、これが2000人の方が暮らした町かとその様子に唖然としました。
喋るのを生業としながら語るべき言葉のなさに忸怩たる思いです。
ある時とある避難所の男性が避難所の皆さんに呼びかけ、朝ラジオ体操で一日を始め一本締めに気持ちを込められているのを拝見しました。
以降私の落語会では被災地へ全国の皆様の気持ちが届けばと一本締めてお開きにしております。
本日も被災地の復興への気持ちを込めましてのお力添え何卒よろしくお願い申し上げます。
それではお手を拝借、イヨー!
ありがとうございました。ありがとうございました。

http://meiboku.exblog.jp/12813290/
http://ameblo.jp/yanoshot/day-20110621.html

大河への道  その4 伊能忠敬記念館

全国には小京都と称される町があります。
津和野は山陰の小京都とか竹原が安芸の小京都とかのように。
その伝で小江戸というべき町もございます。
その一つに佐原がございます。現在は合併で千葉県香取市ですか。
いい雰囲気の町ですが小さいです。2時間もあれば充分です。
「おい、どうする?」
「どうするたって他に行く所ないだろう。まあここでも入ってみようか」
「ただたかって読むのか。ちゅうけいって思ってた」
てな具合で立ち寄ったのが伊能忠敬記念館、4年前のことです。
その入り口で衝撃を受けました。
壁面に国土地理院製作の日本の白地図がありまして、それにスライドして来たもう1枚の地図が重なります。ほぼ正確に重なります。僅かな誤差は地球の丸味がもたらすもの。
伊能地図の見事さに心底驚きました。
聞いていただいてます。一瞬一人になったような気がしましたので。
学校行事で訪れた小中学生は違っている部分を見て笑うそうです。
しかし手作りの天眼鏡や竹、荒縄といった道具で作られた事実を知るとまた違った反応を見せるとか。
忠敬は17歳の時に伊能家に婿養子に入ります。手広く商う商人でした。
なかなかの篤志家で天災に襲われたりした時は、蔵を解き放ち村人を救ったりしたそうで帯刀を許されていました。
50歳で家督を譲り江戸に出ます。そして地球の大きさが知りたいと入門したのが幕府天文方高橋至時、あのシーボルト事件で獄死した高橋景保の父です。
至時は19歳年長の忠敬の入門に戸惑いますが、隠居の慰みの手伝いと気楽に考えて引き受けます。
19歳年上、ちょうど談志がそうです。
談志が私に「弟子にしろ」(モノマネ)なんて来たらもちろん断ります。
ではなく忠敬ですが、至時は彼の天文学への造詣の深さとその熱意に驚かされます。
そして地球の大きさを計算する一環として蝦夷地の測量を勧めます。
幕府方はその意義を理解しませんでしたが、費用も忠敬持ちでもあり許可します。
55歳を過ぎてから一定の歩幅で歩く訓練等を重ね道具を手作り、一から測量に取り組みます。
その成果に幕府も驚き日本地図製作を命じるに至ります。
都合18年忠敬は地図製作のため歩き続けます。
日本全国を歩きます。社会的見返りは何も期待できませんが。

そんな伊能忠敬がまだNHK大河ドラマに取り上げられていない。
そんな理不尽はなかろう、と佐原の町はプロジェクトを立ち上げるべく噺が始まります


大河への道 その3 シーボルト

「で明日どうする?」
「どうするって」
「明日の仕事は夕方だからそれまで時間あるでしょう。どうする?ブームにのって龍馬巡りします」
「わざわざ混雑している時にそんな必要ないでしょう」
「なら他に行きたい所、やりたい事あるの?」
「ある」
「えっ!何処?」
「シーボルト記念館」
「シーボルト記念館?! そりゃ渋いね」

渋いと言われた理由は行くとお判りになります。
小学校の教室を少し小さくしたような広さの部屋が3つ。コの字型に並んだ極地味な記念館です。
学芸員らしき男性が私を知っていてくれまして、案内しましょうかと声を掛けて頂きました。
ありがたくお願いしたんですが、坂本龍馬に詳しいのとシーボルトに詳しいのとどちらをお望みですか、と尋ねられました。せっかくですからシーボルトと言うとその方でした。
いきなりシーボルトは何人かと聞かれましたんで、オランダ人?と答えました。
「ドイツ人です。そんなことも知らない人が来るんですよ」
思わず頭下げちゃいましたが。
館内には当時のシーボルト縁の品が並んでいます。
思わず本物ですかと聞くと、本物です。寄贈品です。
それにしては寄贈者の名前がないのでどなたですかと尋ねました。
寄贈者が望んでませんので、という返事でしたが例の三菱出の頑固者が識り合いかも知れないので是非教えて欲しいと迫りました。
すると「それは私です」なんと寄贈者は扇浦さん、その学芸員御本人でした。
広島出身で遺跡発掘に関わっておられたのがふとしたことでシーボルトにのめり込まれます。
そして私財でこれはという品を買っては記念館に寄贈されているそうです。
凄い学芸員さんじゃあないですか。
それに何と言っても私に高座のネタをこんなにも提供していただいているんですから。
でも隠しておきたいのなら最後まで黙ってりゃあよさそうな気もしますが。

ともあれ私が何故シーボルト記念館に来たかったその理由ですよね。
シーボルト事件、ご存知ですよね。
シーボルトがご禁制扱いだった伊能地図などを海外に持ち出そうとした事件です。
地図を渡したのは幕府天文方の高橋景保。
彼は伊能地図は日本を救うと考えシーボルトに渡し、その代わりに海外の地図などを受け取り情報を得ようとしました。
シーボルトは賢い男でしたので地図を受け取るとすぐにそれを複写、鳥籠の糞を受ける敷物の下に隠します。
幕府に事が露見するや原本を返し地図を手にして国外に退去します。
一方高橋は獄死します。
「でもどうして幕府にばれたんですかね?誰かちくったんですかね。」
「そうです、この男がやったんです」と出口付近にあった肖像画を指差します。
「誰ですか」
「間宮林蔵です」
「えっ、あの間宮ですか」
「そう、海峡を突き切り樺太が島であることを証明したあの間宮です」
「そんな人がそんな事をするんですか」
扇浦さんの説明はこうです。
間宮は高橋が上司であることを日頃から快く思っていなかった。
高橋が留守のある時にシーボルトが尋ねてきます。
そして包みを一つ間宮に預けていきます。
おかしいと感じた間宮は自分一人では開けず、役人に届け出て開けると出てきたのが外国の出版物と地図への礼状。
かくして幕府に知られるところとなったのです。
そんな記録があるのですかと聞くと「私の想像です」。
ねえ、いい学芸員でしょう、想像を逞しくして歴史を語ってくれる。
江戸時代の様子が目に見えるようでしたね。
私が知りたかったのは地図を巡ってのこれらの経緯です

http://mainichi.jp/enta/geinou/warai/shinosuke/archive/news/2011/20110218ddlk13070274000c.html

大河への道 その2 坂本龍馬

まさに龍馬が暗殺されようとする時だったんです。
博多からの特急も龍馬目当ての観光客の方で一杯でした。
長崎に着くなり皆さん観光案内所に直行されます。
駅には福山龍馬の大きな写真が飾られ例のテーマソングも流れています。
ともかく長崎は坂本龍馬で凄い盛り上がりだったんです。
それを横目に私共は会場に向かったのですが。
年に一度の公演ですので多くのお客様が楽屋を訪ねていただきます。
長崎ならではお土産を携えて、カステラとかカステラとかカステラ。
色んなお店のカステラが並びます。
昔「試してガッテン」を担当してくれていて今は長崎に赴任している女性デイレクターが今年も来てくれました。紫の風呂敷包みで桐の箱に入ったのをいただきました。
焼酎かな?と思ったりしたんですがそれにしては軽いんです。ならカステラか?
紫の風呂敷に桐の箱ですから、それだけで高いんだぞ、と自己主張してます。
開けてみますと龍馬名言録なる小冊子が載ってます。
一言で言うとそんなに欲しくない物です。しかしまあこれは付録です、問題は箱の中身です。
おもむろに開けるとインスタントのチャンポンや皿うどんのセット。
それを傍らで見ていたのが元三菱重工勤務の見るからに頑固親父。
「ねっ、おかしいでしょう。今の長崎。何でもかんでも坂本龍馬。龍馬が食べた○○、食べたかもしれない××。何かと言うと坂本竜馬」
よそ者に言われる前に言い訳気味に仰ってるんでしょうが。
ひょっとすると三菱出身だったからかも知れません。岩崎弥太郎の描かれ方が気に入らなかったのでは。あれじゃあただの守銭奴ですからね。

こんなお客様もお訪ねいただきました。
毎年お見えになるご婦人と一緒に上品な方が。でも落語ファンという風ではなさそうですし、私に挨拶されるわけでもなし。紹介してくれたらいいのに、という表情が出たんでしょうね。
毎年お見えになるご婦人が「こちら龍馬の母」。
皆様はピンと来られたんでしょうが、私は一瞬理解できませんでした。
間を置いて「ひょっとして?」「そう福山雅治さんのお母さん」
そうでした、長崎のご出身でした。
携帯を持ってから一度も使ったことがなかったんですが、初めてツーショットの写メしましたね。
お母さんは落語会は初めてだったそうです。
「志の輔師匠の落語、とても面白かったです。雅治にも是非聞くように伝えます」
とは最後まで仰いませんでした。
しかし、後日オールナイトニッポンで「母から志の輔落語を聞くように電話があった」と放送された事を人づてに知りました。

志の輔独演会 大河への道 その1

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志の輔独演会

2011年8月27日(土)
森之宮ピロテイホール

志の輔らくごと書かれた幕が揚がるといきなり志の輔登場。
下手で一礼の後釈台の置かれた高座へ。
釈台、マクラも含めて一つの作品に仕上げられていました。
忘れないうちにメモします。
それにしても志の輔師匠こんなに早口でしたか。
去年は感じなかったんですが今年の出だしにはちょっとビックリしました。

「大河への道」  立川 志の輔

昨日、一昨日とリハーサルを終え本日の本番を、は冗談ですが本年もこの森之宮で3日間の公演を務めさせていただきます。
毎日いいお客様にお越しいただきありがとうございます。
それにしても暑いですね。今日も32度を越えたようでして何でも多治見では45度を超えたとニュースに、
なってもおかしくないような暑さです。
外へ出ましたら暑いんですが、コンビニに入るとエアコンが効いてまして外へ出るとまた暑い。
銀行へ行ってお金を下ろそうとすると又冷房で寒いぐらい。
冷蔵庫の麦茶の気持ちがよく判ったりするんですが。
暑いと昨今はゲリラ豪雨というのに襲われたりします。
先日の独演会がそれでした。途中の静岡で集中豪雨があり新幹線が遅れました。
12時20分の新幹線に乗ろうと思ったら12時発のがまだいるんです。
このままじゃあ間に合わないと思ったから12時発のに何とか潜り込んだのですが、遅れの表示が出てました。只今16~41分の遅れで運行しております。
何とも微妙な分数ですが、遅れまできちんと管理しているJRに感心いたします。
中国にはぜったいできないことです。
そして新幹線のいい所は例え何時間遅れても目的地に着くことです。
遅れても途中どこかで停車しても前に向かって進んでくれます。
これが飛行機だとそうはまいりません。天候調査というのがございます。
一旦離陸はしますが目的地の状況によっては引き返すことがあるのです。
富山空港、我が故郷ですが大きな神通川の横に小さな滑走路があります。
非常に着陸の難しい空港です。
独演会のために天候調査中でしたが搭乗しました。
案の定富山は天候不良、上空を旋回します。
機長の只今より着陸を試みます、シートベルトをご確認くださいの声に
皆さん何とか着陸できますようにと祈っております。
滑走路が見えた、と思った途端上昇します。
試みること3度、結局羽田に戻りました。
片道1時間往復2時間に上空で旋回1時間合計3時間飛行機に乗って、結局何処にも行ってないのです。
地上職員がにこやかに「払い戻しになってよかったですね」。
別に子供じゃないんだから、飛行機に乗りたかったんではないんですから。
新幹線でも困ったこともあります。
東京駅に入る自動改札を通って次に構内にある新幹線用の自動改札を通ろうとしたらピンポン鳴るんですよ。何度やっても鳴るんで係員が飛んできました。切符を見せますと特急券だけだと言うんです。でも事務所で貰ったのはこれだけなんですよ。
どうすればいいかと尋ねると乗車券を買ってくれと。
でもその前にここまでどうやって来たんですかと聞くんです。
入場券とかどこからかの在来線の切符は?と。
私はその切符で八重洲口を通れたんです。そんな筈はないと言われても事実なんです。
少なくとも私が誰か判って貰おうと帽子を取ったんですが、その女性職員はガッテンしてくれたかどうか。
ともかく乗車券を買おうと窓口に行くと、そこでも「ここまでどうやって来られたんでしょうか?」

今回事前に演目をお知らせさせて頂きましたが初めてです。
通常は弟子一人に前座を勤めさせまして私が一席、中入り後にもう一席でした。
それじゃあ厳密には独演会ではないんですが今回は私一人、「大河への道」一席の文字通り独演会です。
パルコでの1ヶ月公演に掛けたんですが、私的には非常に好評です。
世間の皆様の評判は判りませんが。
もう一ついつもと違うのがこの釈台です。
上方落語では膝隠しを使います。
こちらでは座布団の上で賑やかに演じられますので時として勢いが余る事がございます。
その時正に膝を隠すんですが、それとは違います。
講釈で使います。先生が 張扇でこう叩きながら語ったりします。
講釈師見てきたように嘘を言い、なんて申しますように地の部分を講釈師の目線で描写します。
一方落語はその部分を登場人物に語らせます。
横丁からいい男が一人、その後を追うように女性が飛び出してきます。

「おい見ろよ、今出てきた男。にやけた野郎だね」
「おっと、女も飛び出して来たぜ。いい女だね」
「何、いきなり腕にすがりつきやがった。さてはあの二人出来てやがんな」

いえ、落語の方が言葉遣いが下品てなそういう問題じゃあないんです。

忘れもしません昨年の10月28日です。
長崎で独演会でした。
当時の長崎は異常な雰囲気に包まれていました。
  (この間私は何があったか必死に思い出そうとしたが全く判らなかった)

スティーブ・マックイーンの911

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スティーブ・マックイーンのポルシェ911S
がこのほどオークションにかけられ1375000ドルで落札された。
このポルシェは1970年映画”ル・マン”の撮影時に届けられその映画の冒頭にも登場している。

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アンデイー・ウォホールファンに

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インケースがウォホールデザインのアイフォン、アイパッド用のグッズを発表

http://goincase.com/

ご安航を祈る

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先日NHKで「ふたり~コクリコ坂・父と子の300日戦争」というのをやっていた。
その中で宮崎駿は野村や長島監督とは違うと言っていたがどうですかね。
ゲド戦記の時からビデオ撮ってます。しかしその時は番組にならなかった?
(やったのかどうか知らないがそれを前提に書いてます)
しかし今回の番組は放送された。
充分親馬鹿やってるのでは。
少なくとも「ゲド戦記」は試写を見た父が途中で退席せざるをできない内容でした。
元々父は設計士だった吾郎が監督になるのは反対だったそうです。
また周囲のスタッフなども同様だったようですが心配の内容がちょっと違います。
後者は素人がいきなり紙切りができるのかともっぱら技術的なことを疑問視。
一方父駿は吾郎に監督たる覚悟を問い掛けます。
この辺がさすがと思わせます。
さらに今作品の主人公の性格を掴み切れず中々製作が動き出さないのを心配した駿が一枚のコンテを描きます。
するとこれまで暗さのあった主人公が生気に満ち、スタッフの意思も統一されます。
その有様を見ていた駿をカメラが撮ると「何撮ってんだよ」と照れ隠し。
そのコンテ実際の映画のシーンよりよかったと思います。
この度の東日本大震災で中断しそうになった時、発破をかけたのも駿です。
何かにつけ影で支えた父、プロデューサーから吾郎の成長を聞いても「何撮ってんだよ」。
でも野村や長島監督とは決定的に違います。
それは吾郎がプロのアニメ監督足りえるからです。
息子が一人前だったからです。
「コクリコ坂から」はいい作品です。
脚本に気に入らない所もありますが。

それにしても序盤のバスのナンバープレート、
あれはどういうことでしょう、悪い冗談ですかね?
神 230
陸運事務所を示す文字「神」が「横浜」「相模」になったのは1964(昭和39)年11月ですから「神」はわかります。
そこまで確認しておいて230は何故?
分類番号の3桁化は1998年5月
125492321134416104595_auto002  川口自動車館
また理事長に直接談判に行きますが、モデルとなった徳間康快の社長室には出版作品が置いていました。
その中の一冊「自立の思想的拠点」が徳間書店から出たのは昭和41年11月です。
この物語の時には出ていません。
細かい所にチェックミスがあるのでは。
そもそも昭和38年の学生運動はどうだったのか。
クラブハウスにカルチェラタンの名を冠していますが、神田の騒動は昭和43年ですし本家の五月革命も昭和41年。
昭和38年が舞台のこの作品とは空気が違ってたように思います。

師匠へのオマージュとして映画が少し前に掛かりました、「 スーパーエイト」です。
傑作という評判で見に行きました。
なるほど師匠の映画を髣髴とさせる場面もあり、そつない仕上がりです。
映画少年の存在そのものが師匠へのオマージュでしょう。
子供達の演技もよかった。
でもあの続編を撮るとしたらどんな映画になるのか。
その点がいささか気がかり。

画像はこのほど戻ってきたレンブラントの「審判」

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残暑お見舞い

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Miroslaw Swietek氏の撮影した夜露に包まれて眠る昆虫

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