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上方浮世絵

大浮世絵展


山口県立美術館で開催中の「大浮世絵展」好調のようで22日には入場者が5万人をこたとか。それも当然、美術館や個人所有のいかんを問わず日本全国各地から400点を越える作品が集められています。
東京、名古屋は既に開催され山口が最後のチャンス、お見逃し無く。

その中の1点、流光斎如圭の「芳澤いろはの桜丸女房八重」
以前このブログで取り上げたました
再掲しますと
展示されているのは左、しかしロサンゼルス群立美術館には右の作品があります

Himg0179_2   M2006_136_59

写楽の名が記され蔦屋の極があります
何故このような物があるのか
展示を機に山口美術館に問い合わせました
以下その回答です

本展覧会の展示作品番号352「芳澤いろはの桜丸女房八重」は、
流光斎の作品で間違いないと考えられます。
理由として以下の3点があります。

1.展示作品番号352「芳澤いろはの桜丸女房八重」は、寛政6年4月上演の芝居に取材したものであり、写楽がデビューするのは同年翌月であること。この作品が最初に出た時点で、写楽はまだデビューしていません。

2.流光斎と写楽、それぞれの画風。写楽の画風とはやや異なるように感じます。

3.描かれているのが江戸ではなく大坂・中の芝居の上演に基づく役者絵であること。流光斎は大坂で活躍、写楽は江戸で活躍しました。


そして、ご指摘くださったように、ロサンゼルス郡立美術館(LACMA)所蔵作品は、インターネット上で確認する限りでは、同じ作品(同じ版木で摺った作品)のようですね。
おそらく、江戸の版元が上方の版元からこの作品の版木を買取るなどした後、絵師名の部分に「埋木(うめき。版木の一部分を刳りぬき、別の木を入れて、その部分を修正・改作すること。)」をして、写楽の作品として、江戸で売り出されたのだと考えられます。

流光斎(あるいは上方全般)の役者絵は、役者の姿を理想化することなく写実的に描くという表現が、写楽の作画姿勢と共通するものとして指摘されています。
当時の江戸の人々にとっては、「写楽」の名で売り出されても違和感のない画風だったのかもしれません。



鏡文字

今朝の日経、福岡伸一氏のコラムの話題はダ・ヴィンチの鏡文字
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彼は完成させた作品がわずか十数点に過ぎないのに対し、膨大な量の手稿を残している。
思いついた事を書きとめた謂わばメモ帳です。
大きな特徴の一つが全て鏡文字で書かれている事。
思いつくままにスラスラと鏡文字が書けるのは天才たる所以でしょうか。
それにしてもわざわざそんな真似をしなくても思うのですが。
その理由を福岡氏は常に広く自分を売り出すことを心掛けていたダ・ヴィンチ。
そのために必要なのはマスメデイア。
当時は活版印刷の時代。それを意識しての周到な準備ではないかと。

現在山口県立美術館で開催中の大浮世絵展にも鏡文字の作品が展示されています
「芝翫帖」

Imag0149_2

高松藩家老、木村黙老により編纂された貼り込み帖
如圭や松光斎の肉筆画が収められている  Imag0150
ここに書かれた文字が鏡文字。
筆の運び、勢いに乱れがなく見事です。
何故鏡文字なのか?
名古屋で展示された折、学芸員にお尋ねましたがその理由は不明との事でした。
単なる遊び心からでしょうか?
ダ・ヴィンチのような何らかの意図があるのでしょうか

ざこば 上方の浮世絵展


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「中村加賀弥改名摺物」  西光亭芝国 文政4年(1821年)

Background

Shûmei ("succeed to a name": 襲名) is a ritualized name-taking or accession ceremony. In kabuki, usually three or more times in a career, an actor succeeds to a new geimei (acting name: 芸名) while giving up his previous stage name, which in turn may be passed on to another actor at the same ceremony, or later. Shûmei are not merely switches in stage names, but  encompass the adoption of roles and performances of specific plays closely associated with one or more predecessors in the same acting lineage. Shûmei were followed, on the same program, by performances that management and fans considered specialites of the lineage. So it was a momentous occasion for the actor,  his sponsors, and his fans. A newly annointed actor had to live up to expectations and be worthy of the honor bestowned upon him. One way to commemorate shûmei was to commission a privately printed deluxe woodblock print with poems (surimono), as is the case here with Shibakuni's design.

Design

This is a shûmei surimono for a young boy named Matsutarô  (万津太郎) changing to (aratame: 改) or becoming the actor Nakamura Kagaya (中村加賀弥). He was the younger brother of the renowned Nakamura Matsue III (三代目中村松江), himself a pupil of the superstar Nakamura Shikan II (二代目中村芝翫), later Utaemon IV. Remarkably, this surimono appears to be the only record of Kagaya, who was probably about 5 to 8 years old at the time of publication — he is referred to as "Nakamura jidô" (Little-kid Nakamura). Possibly he died young or abandoned  the stage not long after his shûmei. We should note here that the name Kagaya, with a different third character (加賀屋), was the"house name" or yagô of the actor Nakamura Utaemon III (1778-1838) and also of his protege Nakamura Tamashichi (1836-1860) and should not be confused with the Kagaya (加賀弥) commemorated in this surimono.

There are poems by the aforementioned Osaka actors  Matsue III  and  Shikan II, along with the equally celebrated Tojaku (the Edo-based actor Iwai Hanshirô V: 五代目岩井半四郎), who was visiting Osaka in 1821-22. Tojaku (杜者) was Hanshirô's haigô (literary name: 俳号). Thus the young actor is being welcomed to the kabuki stage by some of the finest actors of the period.

The headnote identifies the occasion, Matsutarô  changing to Nakamura Kagaya. (Matsutarô aratame Nakamura Kagaya)

The first poem is by Kagaya: In the early evening the color red is good — irises. (Yoinakani akainoga yoshi kakitsubata)

The second poem may be read as The younger brother trains for the stage and has taken a new name. Such a  promotion is pretentious, but please support him for a long time. (Imada osamaki ototoga okagamashikumo na o aratamete shugyô suenagaku gohiiki o negai matsuran koto o gohirô môsu mo osorenagara)

The third verse (by Matsue III) is brief: I had two iris stalks. (Kakitsubata nihon soroete moraikeri)

The fourth poem states, He is family. We hand over to him the name 'Kagaya'. Please support him. (Miuchi narumono nishi areba Kagaya to ieru na o yuzuri yukusue no gohiiki o nogau nomi)

Shikan II wrote the fifth poem: As with a nightingale, the voice is all important. Will this voice be good or not? (Hototogisu koewa yokaroga warukaroga)

Finally, the sixth poem: Let's celebrate the great potential of the kid Nakamura— a bud of the peony flower.* (Nakamura uji jidô no kaimei o shukushite sakariniwa [...] to botan no tsubomi kana)

At the lower right is the artist's signature (Shibakuni ga: 芝國画) and at the lower left a name reading  Zakoba  (ざこば), who was a printer active circa 1822-25.** See also YSK03 for an example of Zakoba's printer seal. Below his name there are three seals, the first reading hii (贔), an abbreviation of hiiki (patron or fan of an actor or kabuki: 贔屓).  The other seals read Ha (ハ) and Ido (井洞). So this surimono appears to be sponsored by a number of patrons or fans of Kagaya or members of a kabuki fan club.

Kagaya, who is holding an ôgi (folding fan: 扇) and a freshly plucked water iris (the kakitsubata 杜若 mentioned in two of the poems), is walking along a yatsuhashi ("eight-fold bridge" or bridge of eight planks: 八橋), a type of low bridge built over a shallow pond or marsh consisting of wooden planks without rails layed out in a zig-zag pattern. Yatsuhashi were often built over iris marshes, as we see here in Shibakuni's surimono, recalling the classic Ise monogatari (Tales of Ise: 伊勢物語) in which the main character and his companions stop to rest at a famous iris marsh traversed by an eight-plank bridge.

This surimono comes with a very rare, printed portion of the original envelope

上方の浮世絵展に行ってきた
約40年ぶりの展示規模のようです
日本各地の美術館、個人の協力があったようです

その中で見つけたのが「ざこば」
思わずあの顔が浮かんできました。
初代ざこばでも1920年襲名ですから全く無関係でしょう。
江戸時代には歌舞伎の贔屓筋でも名乗っていたようです。

その他印象に残ったのは柳斎重春

5050161212750037 「自来也」

天保3年8月「棚自来也談」に取材した擦物形式の役者絵
この形式の物は版権が擦師にあったため擦物として作成後、擦り増しができたとか
全てに凝った作りです

それはこの展覧会のポスターになった作品にも伺える
この作品は7枚綴りの連作          

Photo_3

主になる太夫は単独で描かれているが他の6枚には七変化する業平、お福などがそれぞれの背後に見えます






その他興味あったのは擦りの違いと錦絵と合羽擦りの比較
前者では画像はありませんが国員が通称「油屋」を題材にした作品で上擦り、並擦り2組を並べその違いを比べていました
上擦りは金色を使ったり色数が多かったり、またそのボカシ具合にも差があります。
着物のデザインが違ったりもするようです

ネット画像では判り難いですが「曽我物語巻1」の画像を
上が上擦りです

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後者の合羽摺りと錦絵の比較では作者が異なる物の同じ役者の同じ構図の2点を並べていました

また美人がでも江戸とは趣が違います  
画像は祇園井特の           Jkai0206b
「歌妓恵以路図(かぎえいじず)」
だんご鼻気味で目立ちます
唇もはれっぼたい
井特は実在の芸妓を特徴的に描くのを
得意としていたそうです


Dp130162 流光斎如圭らの役者絵にもそういった所が見られます
「三代目花桐豊松のおはや」
法令線がくっきり

画題にある四声は豊松の俳名

流光斎如圭で印象に残ったのは
「狂言尽図巻」

安永から寛政年間にかけて活躍した役者34名を描いた絵巻物

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如圭で重要なのがもう1点
「旦生言語備(やくしゃものいわい)」
役者似顔の扇面で人気を博していた如圭最初の役者絵本
この絵本のヒットが上方での役者絵本の流行、一枚絵に繋がる

 

嵐璃寛:上方歌舞伎名門の息吹

4月16日~5月30日
池田文庫(072・751・3185)

HPでなかなか紹介されませんので新聞記事で

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嵐璃寛:上方歌舞伎名門の息吹 片岡仁左衛門家寄贈の錦絵、500点公開へ

歌舞伎俳優、片岡仁左衛門家が所蔵していた上方歌舞伎の名門、五代目嵐璃寛(りかん)(1871~1920)家の遺品が阪急学園池田文庫(大阪府池田市)に寄贈され、来月展示公開される。保存状態のいい錦絵約500点など、江戸時代から明治期の上方歌舞伎の様子を知ることができる貴重な資料だ。

 璃寛家は初代が「大璃寛」と呼ばれるなど名優を輩出した家柄。五代目は女形中心に立役(男の役)もこなし人気があった。

 遺品は約35年前、璃寛の遺族が十三代目仁左衛門(94年死去)に贈った。錦絵は、幕末から明治初期までの三、四、五代目璃寛の色鮮やかなもので、4冊の画帳に張られていた。璃寛の錦絵ばかりを集めたのは他に例がないという。

 また二代目璃寛(1788~1837)の一代記「橘草紙」は和紙に墨書され、芝居の出勤記録の他、江戸時代の歌舞伎界の様子も描かれている珍しい本。他に、当時のファンクラブ「大手連」が使った袋入りの拍子木、姿見、明治初期の番付27枚も寄贈された。

 上方歌舞伎に詳しい梅花女子大教授で池田文庫の荻田清理事は「錦絵は今刷られたかのように保存状態がいい。また、橘草紙によると、二代目璃寛が七代目仁左衛門に非常に可愛がられていたことが初めて分かった」と評価。十三代目の三男で十五代目仁左衛門さんは「多くの人に見ていただく方が(璃寛家にとっても)幸せで、遺品も生かされると思う」と話している。


毎日新聞 2010年3月17日 大阪夕刊

写楽のそっくりさん

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昨年でしたか「四大浮世絵師展」が全国を巡回しました。
国際浮世絵学会理事中右瑛氏のコレクションから選りすぐりの作品が出品されていました。
四大絵師、北斎、広重、歌麿、写楽の4人が取り上げられていました。
写楽の一角には「写楽のそっくりさん」と題して、かって写楽の正体として名前が挙げられた絵師が並んでいました。
その中の一人が流光斎如圭、上方浮世絵の中心的絵師で写楽に影響を与えたとされています。
彼の作品で展示されていたのが「芳澤巴紅の桜丸女房八重」です。
寛政6年4月の「菅原伝授手習鑑」の中の芝居です。
(因みに写楽の第1作は寛政6年5月の都座の外題です。)
細版ですからサイズは33×15cm程でしょうか。

アメリカに気になる作品が有ります。
”The Osaka Actor Yoshizawa Tomoe in the role of Yae, wife of Sakura Maru”
流光斎のearly 1790sの作となっています。
大きさ29、53×14、29cm。
しかし落款が写楽になっています。蔦屋の印もあります。
如何でしょうか。
この絵の関係はどうなっているんでしょうか。
ご存知の方ご教示お願いいたします。

初世叶雛助の大森彦七と四世市川団蔵の粟生左衛門

195023981  細版 
落款 流光斎 

                                                                                              

                                                                                                   

                                                                                                                                                

寛政4(1792)年11月道頓堀角の芝居で演じられた「人心叶戯場(ひとごころかのうかおみせ)」から。
寛政4年は上方で版画作品が作られた最初の年と考えられています。
ここに描かれた二人は当時を代表する立ち役。
叶は嵐とも名乗り太りすぎから女形を断念。

粟生左衛門 は新田義貞の四天王の一人
彦七が背負っていた鬼女が正体を現す場面。

三代目中村歌右衛門と三代目坂東三津五郎の首引き

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文政5(1822)年2月
よし国門人玉国画(右) よし国門人岸国画(左)

当時上方歌舞伎界は看板役者同志を競わせ、贔屓熱をあおったそうです。
それを相撲の取り組みのようにし、首引きで表わしました。
三代目中村歌右衛門(芝翫1778~1838)は嵐吉三郎(璃寛1769~1821)とのライバル関係が有名ですが、江戸の三代目坂東三津五郎(1775~1831)ともその人気を競い合っていました。
この絵では共に石川五右衛門を演じています。
歌右衛門は中の芝居、三津五郎は角座で同時に演じて、東西の人気役者の一大競演と大いに評判だったようです。

春霞ひくや引くや贔屓のちから綱 はつ国
千金の詠めにあかぬはる景色   千歌国

はつ国、千歌国もよし国の弟子です。

長谷川貞信

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春季特別展「長谷川貞信 ― 大阪の浮世絵師 ― 」
関西大学総合図書館1階展示室

平成21年4月1日(水)~5月17日(日)


初代 鏡やま故郷の錦繪  (上)
   局岩ふじ=坂東壽太郎 召使おはつ=中村富十郎 中老尾上=三枡源之助

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2代 三都大相撲取組之圖 (左)
3代 女児氏神詣之圖 (右)

花を見捨つる鳥

Sc179510fpxobjiip1_4 片岡我童の淀屋辰五郎
初代 長谷川定信

                            

                            

                            

                             

                            

                               

上方落語のお噂を一席。
諸国を漫遊する黄門様、掛川の宿でふと目にした衝立の絵が判りません。光信の雁金のようだがそれにしてはおかしい。夜景でもなし、松の下にも何か積まれている。そこへ来合わせた町人が、これは雁風呂であると教える。雁は北の常盤の国が寒くなると日本への海を渡って来る。その時一枝を咥え、疲れるとそれを海に浮かべて羽を休める。蝦夷松前には大きな松が有り、そこに雁が勢揃いしてその松の根元に枝を落として行く。冬を乗り切った雁はその名の通り、桜の散る頃再び枝を持って北へ帰る。そして残った枝の数だけ雁は命を落とした。憐れに思った土地の人がその残った枝で風呂を焚き、旅人や遍路乞食に湯浴みさせ、路銀も与えると。そう説明した町人が大坂の商人淀屋辰五郎。表向き贅沢が過ぎて闕所となっておりますが、実は多くの大名が淀屋に借金をしたため示しがつかなくなったのが実情。大名貸しの総額は何と20億両に上るとも.。光圀はそれが少しでも返済してもらえるよう一筆したためます。

片岡我童。天保12年の作品ですので2代目後の8代目 片岡 仁左衛門でしょうか。
実川延三郎と幕末の上方歌舞伎を盛り上げたようです。

「役者評判記の世界展 付流光斎如圭役者絵」図録案内

近松研究所開設20周年を記念して 平成21年 1月 6日から 2月15日まで
尼信博物館で開催いたしました「役者評判記の世界展 付流光斎如圭役者絵」の図録が出来いたしました。
 この図録には、展示品の写真ならびに解説だけでなく、役者評判記に関する論文 6編、略年表、参考文献も収載されております。
  頒価  1,500円(送料・送付手数料込み)
 購入希望の方は、近松研究所にメールか電話、FAXででお申し込みください。近松研究所でもお買い求めになれます。

TEL 06-6429-9928
FAX 06-6429-9922
E-mail chikamatsu@sonoda-u.ac.jp

http://www.sonoda-u.ac.jp/chikamatsu/index.html

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