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今日の浮世絵

「絵本庭訓往来」絵師 北斎本人か…新説

須坂市の田中本家博物館顧問で美術評論家の仁科又亮(ゆうすけ)さん(79)(千葉県袖ヶ浦市在住)が、江戸後期の浮世絵師・葛飾北斎(1760~1849年)が挿絵を担当した江戸時代の書籍「絵本庭訓往来(ていきんおうらい)」中に登場する絵師=写真=が、本人自身を描いた自画像ではないかとする新たな見解を16日、県庁で発表した。

 仁科さんは浮世絵研究家で、国際浮世絵学会理事。絵本庭訓往来は、江戸時代に手習いの教科書として盛んに出版された「庭訓往来」の一種。挿絵入りで1828年(文政11年)に刊行された。北斎が、仏師や鍛冶などの職人を特有の詳細な観察眼で描いている。

 仁科さんは今年4月、千葉県いすみ市の寺が蔵する「絵本庭訓往来」を見ていて、登場する絵師が北斎ではないかと気付いた。絵師は2本の絵筆で女性を描いており、男2人がそれを驚いたように見ている。

 仁科さんは、この絵師を自画像と考えた根拠として「肖像画や自 画像で伝えられる面長な北斎の顔と似ており、描いている絵は、小布施町の北斎館が蔵する北斎の代表作『白拍子』に酷似している」と指摘。2本の絵筆を使う 曲芸的な制作ぶりも北斎らしく、「自己顕示欲も強く、自分の作品にほかの絵師を登場させるはずがない」と強調した。

 浮世絵専門の太田記念美術館(東京都渋谷区)の日野原健司主席学芸員は「一般的な絵師として描かれており、特定の誰かを意図的に表現したようには思えないが、絵師の遊び心として自分自身を投影したというのは一つの解釈かもしれない」と話している。

            
2014年05月17日 Copyright © The Yomiuri Shimbun

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日本に1枚の写楽

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「暫」 三世市川高麗蔵の篠塚五郎

東洲斎写楽

              

       

         

  

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                      

                                                              

                                                             

「そのSantori_2名は蔦屋重三郎」展       
11月3日~12月19日
サントリー美術館

それに出品される1点。
世界に3枚日本に1枚しかないそうです。
所有しているのはボストン美術館・ミネアポリス美術館、
そして今回貸し出される東京羊羹さん。
貴重な1枚をこの機会に!

詳しくはhttp://tokyoyokan.blog.ocn.ne.jp/ukiyoe/2010/09/post_5f09.html

                                                       

                                                       

                                                        

                                                       

                                                           

                                                        

                                                       

参考画像
ボストン美術館所蔵(左)とミネアポリス美術館蔵

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西向くさむらい

「西向く士」、小の月の覚え方です。
天保8(1837)年の大小の覚え方が現在に伝わってます。
文政8(1825)年の大小月覚え言葉は1月、3月、5月、7月、10月、12月が大月で「大好きは雑煮草餅柏餅ぼんのぼた餅亥の子寒餅」。
現代は年が変わっても月の大小は変わりません。
江戸時代は毎年月の大小は変わり、年のよっては閏月もありました。
しかも暦は幕府の管理下におかれ、今のカレンダーのようなものは使えませんでした。
これでは日常生活に差し障りが出ます。そこで人々はその年の月の大小を絵にデザインそれを新年の挨拶で配ったりします。

国会図書館の電子展示会で「日本の暦」が取り上げられています。
大小暦を通じて浮世絵の発展に大きく関係しています。
春信の前に「大小暦の謎解き」にも出てくる北斎の絵暦を。

「大小暦の謎解き」
http://www.ndl.go.jp/koyomi/nazo/01_index.html

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「子の字」の説明で先生はなんと答えたのでしょう?とあります。
解説にあるように後の障子に答えはあります。
字の大きさで正月から順に小、大、大、小、大、大、小、大、小、大、小、大
と答えると間違いです。閏二月が抜けています。
子の字を並べた半折の右肩に朱印風に「寛政壬子○」とあります。
さらに左下には落款風に「壬二」「小」とあります。
これで寛政4年壬子年(792年)には閏二月があり小の月とのことだそうです。
ですから正しくは小、大、小、大、小、大、大、小、大、小、大、小、大。

後の絵の解説を少し補足しますと、扇面に大黒天縁の物を並べ、その縁日の甲子の日付を記しています。
同様に蛇は弁財天の己巳(つちのとみ)の日付、猿回しは庚申の日付です。

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「新年を迎えた女魁と客」
大小の羽子板に書かれています。  

                                                                     

                                                                    

                                                          

                                                            

 

                                                                                  

                                                      

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パノラマ地図

9月5日から堺市博物館で

「描かれた近代の景観-パノラマ地図にみる都市と観光-」
http://www.city.sakai.lg.jp/hakubutu/tokubetsu.html

が開催されています。
主に吉田初三郎の作品が展示されているようです。
パノラマ地図の先駆けといえばこれでしょうか。

「江戸一目図屏風」
鍬形蕙斎

江戸時代/1809
六曲屏風
縦176cm、横353cm
文化6年(1809)、江戸の全景を詳細に描いた景観図で、隅田川東岸の上空から西方の地上を見下ろした鳥瞰図である
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これを真似たと言われるのが北斎の「東海道名所一覧」。
このため蕙斎は北斎を嫌ったとか。
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さらに文政元年(1818)版の「富嶽道中一覧其二」は五雲亭貞秀の作
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貞秀には「五十三次勝景」なる作品もあります。
「東海道名所図会」 歌川芳寅も日本橋から戸塚辺りまで望めそうです。
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東海道五十三駅鉢山図会

木村唐船作
歌川芳重挿絵

広重の五十三次から約15年後の図会。
盆景を実際に作るにおいての注意事項も書かれている

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日本橋            品川               神奈川
通行一丁目入り口     御殿山              

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戸塚              三島               蒲原
立場よし図          三島明神            七さか雪けしき

先日私目に作品を鑑よ、とのお話がございました。
ご覧の通り思いつくまま気ままに勉強した事を書き残しているだけです。
浮世絵に通じているわけではなく、ましてや専門家でもございません。

花見

Sc174849fpxobjiip1_2向島行楽図
歌川豊広

                               

                               

火星に運河が有ると唱えたパーシヴァル・ローウェル、来日して日本アルプスの写真を残したりしています。
また花見の様子を『極東の魂』に記録しています。

「日本人は場所を賞でるだけでなく、また時を賞(め)でる。
ある場所は日の出の時に見る。
またある場所は月夜に見る。
あるところは春に訪れ、また別のところを秋に訪れる」

同じ頃来日していたのがエリザ・シドモア。「シドモア日本紀行—人力車ツアー」が有名ですが、その中では上野の櫻を豪華絢爛と述べ、日曜日の上中流階層のものとして褒めています。一方向島は下層階級の櫻として寧ろ天下御免のどんちゃん騒ぎを記しています。豊広の絵をみると一概にそうとは思えないのですが。
またシドモアは向島の桜を嫌っているのではなく、むしろ感嘆し、惚れ込んだという話があります。
そしてポトマック河畔に桜を植えた中心人物です。
http://aranishi.hobby-web.net/3web_ara/sakura.htm#chapter1

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そして明治期に来日木版技術を学んだ画家がヘレン・ハイド。
フランスでジャポニズムの影響を受け、通算十数年滞在フェノロサと交流が有りバーナード・リーチからはエッチングの指導も受けたそうです。
                                                
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Blossom Time in Tokyo, 1914    An April Evening, 1910

尾張町  賑わう呉服屋街

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日本百貨店協会が19日2月の全国百貨店売上高を発表しました。
前年同月比5・4%減の4364億円で、24カ月連続で前年実績を割り込み。
しかし下げ幅が一桁になり改善の兆しも見えるような。
とはいえ全国で閉店が相次いでいます。つい先日も伊勢丹吉祥寺店が閉店しました。
今年中に松坂屋名古屋駅店、阪急河原町店、西武有楽町店と旗艦店が相次ぎます。
繁華街の顔だけに住人ではなくとも気になるニュースです。

江戸時代においてもやはり大店が集まる所はと賑やかだったようです。
越後屋、白木屋があった日本橋と並び賑わったのが尾張町。
こちらは3軒の呉服屋が軒を並べました。
左からえびす屋、角が亀屋、その反対の角が布袋屋です。
本来呉服屋は絹織物を商いましたが、これらの店は太物と云われた木綿も扱ったようです。
歌川豊広の浮世絵からその様子が伺えます。
えびす屋は後松坂屋に発展解消、亀屋は食料品店になったようです。
布袋屋は大正時代新宿に出ますが後破綻、その周りをL字形に囲んでいた伊勢丹が取り込みます。

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明治に新聞社に変わり洋風建築に建て替えられた浮世絵もあります。
ただ店の並びが何故か違っています。

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写楽のそっくりさん

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昨年でしたか「四大浮世絵師展」が全国を巡回しました。
国際浮世絵学会理事中右瑛氏のコレクションから選りすぐりの作品が出品されていました。
四大絵師、北斎、広重、歌麿、写楽の4人が取り上げられていました。
写楽の一角には「写楽のそっくりさん」と題して、かって写楽の正体として名前が挙げられた絵師が並んでいました。
その中の一人が流光斎如圭、上方浮世絵の中心的絵師で写楽に影響を与えたとされています。
彼の作品で展示されていたのが「芳澤巴紅の桜丸女房八重」です。
寛政6年4月の「菅原伝授手習鑑」の中の芝居です。
(因みに写楽の第1作は寛政6年5月の都座の外題です。)
細版ですからサイズは33×15cm程でしょうか。

アメリカに気になる作品が有ります。
”The Osaka Actor Yoshizawa Tomoe in the role of Yae, wife of Sakura Maru”
流光斎のearly 1790sの作となっています。
大きさ29、53×14、29cm。
しかし落款が写楽になっています。蔦屋の印もあります。
如何でしょうか。
この絵の関係はどうなっているんでしょうか。
ご存知の方ご教示お願いいたします。

写楽の印籠

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昨年はギリシャで発見された扇が初めて展示され話題になりました。
もちろん数は少ないようですが版画以外の作品も残っているようですね。
この印籠はどうでしょうか。
似せては描いているようですが。
元の作品と思われる版画を。
八代森田勘弥の駕籠舁鶯の次郎作(緒締め)
四代松本幸四郎の孫右衛門と中山富三郎の梅川(本体)
前作は寛政6年5月の「敵討乗合話」、後者は同じ年8月の「神霊矢口渡・四方錦故郷旅路」。
共に桐座で掛かった外題です。

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とんだ茶釜が薬缶に化けた

95168_482687_2 「とんだ茶釜」
一筆斎文調

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江戸時代こんな言葉が流行ったきっかけは、お仙の姿が消えた事。
家業の水茶屋「鍵屋」の茶汲み女として働いていました。
当時浅草寺奥山の楊枝屋「柳屋」の看板娘柳屋お藤、二十軒茶屋の水茶屋「蔦屋」の看板娘蔦屋およし、と共に明和の三美人と謳われました。
お仙見たさに笠森稲荷の参拝客が増えたといいます。
お仙目当てに訪れても店には老齢の父親がいるだけになったのは、
明和7(1770)年2月でした。
どうしてか?何処に行ったか?
誰もわからなかったそうです。
実は幕府旗本御庭番で笠森稲荷の地主でもある倉地甚左衛門の許に嫁いだそうですが。
そのお仙を描いたのが春信、二人を記念して永井荷風が谷中の大円寺に碑を建てています。
しかしこの寺は何の関係もなく、実際の笠森稲荷のあった福泉院は明治に廃されています。
その 跡には明治26年(1893年)に功徳林寺が建立され、
境内に改めて笠森稲荷が祀られています。
「とんだ茶釜」は思いも掛けない大変良い物事を言います。

「笠森稲荷の鳥居に詩を書くお仙」
春信

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