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ART GALLEY 開廊記念第2弾
望月義也コレクション
全景119点+目録+追善絵広重
計121点 一挙公開!
10月11日~24日
入場無料
ブルトレの「富士」「はやぶさ」が姿を消しました。
JR唯一の昼行急行列車のぼったくり「津山」等も歴史を閉じました。
振り返ってわが国最初の鉄道はご存知新橋ー横浜間でした。
広重の東海道五十三次の神奈川。この初版は1833年頃のようですが、この数ヵ月後に埋め立て工事が始まり、袖ヶ浦の景勝もその有様を変えてしまいます。初摺りの中でも野毛山の下に姥島と言われた白い岩が描かれたものがあります。かなり珍しいそうでトップ画像はボストン美術館の所蔵品で初摺りですがありません。
海上に小舟が浮かんでいますがその列の先です。
そしてこの舟が並んだ辺りを鉄道が走る事になります。横浜駅は当初海上にあったそうです。
目を高台に移しますと茶屋が並んでいます。今の横浜駅西口から登った辺りです。
下の方から「芳屋」「たるや」「玉川」「さくらや」と続いています。
その「さくら」が唯一現在も営業を続けています。老舗料亭田中屋です。
そこで幕末に仲居として働いていたのがおりょうさん。
坂本龍馬達はここを根城に横浜での情報収集を行なっていたそうです。
五葉舎万寿老人製図 新鐫横浜全図 明治 3年 1870年
右下でカーブしているのが鉄道
左上 ミシシッピー湾は磯子の海。ペリー艦隊の名付けた物の中ではかなり後までつかわれたそうです。
最近スズメに関する新聞記事2つを目にしました。
大正時代から続く伏見稲荷参道の焼き鳥がまた1店消え残り2店になったそうです。
中国からの輸入が禁止され、猟師の高齢化で国産も入手困難だそうです。
そう言えば私も10年ほど食べていません。
仕入れは国産1本450円、焼き鳥屋では一体いくらするんでしょう。
そう思っていたらスズメが激減しているらしい。
大まかな推定値ではあるが、1960年ごろの1割にまでなっているようだ。
餌場の田畑と営巣する木造家屋の減少が大きいようだ。
近い将来スズメの焼き鳥は消えるかもしれません。
伏見稲荷は商売繁盛と五穀豊穣(ごこくほうじょう)の神様。
名物の焼き鳥は、穀物を食い荒らすスズメ退治のために始まったとされています。
「鳥追い」と呼ばれる文化の一つでもあります。
明日は旧暦の小正月。 鳥追いはその行事の一つです。
広重はスズメがお気に入りなのか、椿との組み合わせで何枚か描いています。
今回は雪のないものを選びました。
先月の初めから明石公園にオジロビタキのオスが来ています。
結構稀なようで連日ファンが詰めかけています。
今ではすっかり慣れたのか目の前の枝にとまってくれます。
KOUさんのブログでお楽しみください。
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その他兵庫県ではヒメハジロやオオマシコ等珍鳥の報告が相次いでいるようです。
今は北海道でしか見られない丹頂鶴が描かれています。
江戸時代には各地で見られたと思いますが、「東都歳時記」や「武江年表」等には記録がありません。「武江産物誌」に本所、千住、品川が挙がったりしているのが数少ない例のようです。
鶴が庶民ではなく将軍家との関わりが強く、へたに鶴殺しの嫌疑がかかると死罪になったりしたからでしょうか。徳川家は年の暮れに鷹狩を催し鶴を捕え塩漬けにして、天皇に献上したそうです。川柳にも
寿運拙く献上の鶴となり
ほんとうに飛ぶより早い暮れの鶴
「鶴の饗宴」と称し残ったツルの肉は譜代の大名に振舞われたそうです。
さすがに犬公方はそういった行いは無かったようです。逆に小石川で野性の鶴の餌付けをし、そのツルが姿を見せたのが今の新宿鶴巻町。そして紋や屋号等への鶴の使用を禁止しもしたようです。
総じて鶴は吉祥の鳥として扱われたようですが、朱鷺はどちらかというと害鳥の部類に入れられたようです。そして松に鶴と間違って描かれたコウノトリ。
国芳が描いたこんな情景が見られる日が来るでしょうか。
国芳
旧暦では今日は暮れも押し詰まって十三日、煤払い。
そして明日は討ち入りとくれば大高源吾歌舞伎の「松浦の太鼓」でお馴染みのように赤穂浪士の一人で、煤払いの笹売りに身をやつし吉良邸の動向を探っていた大高源吾。彼が十三日に両国橋のたもとで、俳諧の師匠の宝井其角にばったり出会います。其角が「年の瀬や水の流れと人の身は」と発句を詠みかけられたのに対し、「あした待たるるその宝船」と対句して去って行きます。外題の「松浦の太鼓」は吉良邸の隣の松浦鎮信侯に因みます。松浦侯は宝井其角の門下生でもありまた大石内蔵助と同様、山鹿素行の門下生でもありました。
この因縁に大高源吾の妹も絡んできたりします。
実在の大高源吾は子葉と号し師匠は水間沾徳。討ち入りの夜、水間の家の格子戸に源五の筆で「山をさくちからも折れて松の雪 子葉」「世にさた御座候までは 御さたなし下されまじく候」と文書が書かれた文が投げ入れられていたそうです。
「仮名手本忠臣蔵」11段目討ち入りの場面は多くの演出がなされているそうです。
浮世絵も絵師により様々に描かれています。
画像は国芳ですが、ちょっと変わっていますね。これには元絵があります。
詳しくは藤原良太さんのページで。
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広重のは風景画のような感じです。
旧暦では今日28日から11月、江戸時代でも顔見世の幕開けです。
歌舞伎役者はこの時期に1年契約、文字通りこれから一年の顔ぶれを披露したそうです。
本来入りの悪くなる11月をこれで盛り上げるという小屋の意図が伺えます。
この時期忙しくなるのが、紺屋(こうや)、悉皆屋(しっかいや)です。
大店や大名屋敷が大量の印半纏を発注するためです。この印半纏は職人、商人に与えられ今後一年の出入りが叶います。単なる仕事着ではなく、いわばIDカードです。それぞれの印半纏を着た者の所業に与えた者が責任を負ったのだそうです。それ故大変いい質草になったと云います。その切り替えの時期がやはり今時分なのです。
広重の「江戸百 神田紺屋町」、家康から藍の買い付けを許された土屋五郎右衛門が紺屋頭として管理した場所です。昭和35年ごろまでJR神田駅の東にこんな風景が見られたそうです。
富士山は雪景色ですが秋の部に入っています。画中の反物の魚は版元魚屋栄吉を示し、ヒとロの組み合わせは広重自身のお好みの紋。
トップ画像は月岡芳年の「月百姿 烟中月」。
火消しの後姿が凛々しく頼もしい限り。くれぐれも火の用心。
今ケンブリッジ大学のオンラインミュージアムで
Yoshitoshi展とKunisada and Kabuki展が開催されています。
一度ご覧下さい。
http://
Katsushika Hokusai (1760-1849)
Kisoji no oku, Amida ga taki [Amida Waterfall on the Kiso Road] from the series Shokoku taki meguri [A Journey to the Waterfalls of all the Provinces], signed Zen Hokusai Iitsu hitsu, published by Nishimuraya Yohachi (Eijudo), red kiwame seal, very good impression and colour, horizontal centrefold
Oban tate-e
UTAGAWA HIROSHIGE (1797-1858)
Tsuki no misaki [Moon Cape], from the series Meisho Edo hyakkei [One Hundred Views of Famous Places in Edo], signed Hiroshige ga, published by Uoya Heikichi, fine impression, colour and condition
Oban tate-e
Utagawa Hiroshige (1797-1858)
Asakusa, Kinryuzan [Kinryuzan Temple, Asakusa], from the series Meisho Edo hyakkei [One Hundred Views of Famous Places of Edo], signed Hiroshige ga and published by Uoya Eikichi, good impression, the snow rendered in gauffrage, slight fading, slightly stained at edges
Oban tate-e
Toshusai Sharaku (act. 1794-95)
The actor Ichikawa Yaozo III as Tanabe Bunzo in the play Hanayame Bunroku Soga performed at the Miyako-za in the fifth month of Kansei 6 (1794), an okubi-e on a dark mica ground, signed Toshusai Sharaku ga, censor's seal kiwame, published by Tsutaya Juzaburo, good impression, slightly faded, mica slightly worn
Oban tate-e
Suzuki Harunobu (1725?-1770)
Kakitsubata [Iris] - a lady standing over a child who has fallen asleep during a calligraphy lesson, signed Harunobu ga, very good impression, colour and condition
Chuban tate-e
Suzuki Harunobu (1725?-1770)
The second state of a design that was originally a calendar print for Meiwa 2 (1765), bears the name Kyosen and sealed Kyosen no in, a design of two ladies in a boat picking lotus flowers, good impression and colour, slight staining; and a design of a woman sweeping icicles from the eves of a house, signed Suzuki Harunobu hitsu, good impression, stained, rubbed and faded, soiled
Various sizes (2)
Tsukioka Yoshitoshi (1839-1892)
Fujiwara no Yasumasa gekka roteki zu [Fujiwara no Yasumasa Playing the Flute by Moonlight
先日北大ポプラ並木が色づき見頃との新聞記事がありました。
私が数年前訪ねた時は11月末でもう落ちてました。
見損ねて残念な風景ですね。
東の人気スポット日光の紅葉はそろそろのようです。
西のランキング1位嵐山は中旬以降まで待たねばなりません。
江戸で紅葉と言えば品川海晏寺。
♪粋な姿のしどけなく、真一文字に日本橋より真直ぐに、京橋中橋お万が紅、紅白粉も手に付かず、辛気辛苦の新橋に、品川作る水鏡、紅葉見ようなら海晏寺・・・♪ 「道中双六」
最明寺(北条)時頼による建立時より、楓が栽植され蛇腹、千貫、菲梅、猩々などの古木、銘木があったそうです。
岩倉具視などのお墓がありますが、一般の掃苔はできないようです。
品川といえば、帰りはお定まりの所に落ち着きます。
海晏寺真っ赤な嘘のつきどころ
品川も負けずに近所に海晏寺
これは吉原と同じく紅葉の名所だったその近くの正燈寺、の組み合わせを意識した川柳です。
この絵の中に広重がいます。写正でもしているのでしょうか。
広重と思しき人物が江戸百の中など、所々で見受けられます。
そうヒッチコックがカメラマンや通行人の役でチラっと映っていたようにです。 例えが古いですね。オリバー・ストーン、三谷幸喜ですか。
それを探すのも楽しいかも知れません。
もう一枚広重による秋の風景を。秋の神奈川宿です。
11月7日から川崎・砂子の里資料館で初公開
江戸時代の浮世絵師・歌川広重の没後百五十周年に当たる今年、晩年の代表作の一つといえる箱根を描いた肉筆画が見つかり、十一月七日から川崎市川崎区の川崎・砂子の里資料館で初公開されることになった。十二月十三日まで。
春の情景を描いた「箱根二子山」と、秋の芦ノ湖と神社の鳥居を描いた「箱根権現社」のそれぞれ幅三十センチ、縦九十センチの双幅の掛け軸。
静岡県内のコレクターから相談を受けた市川信也那珂川町馬頭広重美術館学芸員によると、山形の天童藩に依頼され一八四九~五一年ごろに筆を振るったとされる「天童広重」の一つで「これまで存在自体把握されていなかった作品」(同学芸員)。同学芸員を通じて購入した斎藤文夫館長は「後世に残る名品を記念すべき年に公開できるのはうれしい」と話した。
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発見された広重の肉筆画「箱根二子山」(右)と「箱根権現社」について、広重作の決め手となった拝領箱を手に思いを語る斎藤館長
神奈川新聞 2008年10月21日
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