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江戸時代こんな言葉が流行ったきっかけは、お仙の姿が消えた事。
家業の水茶屋「鍵屋」の茶汲み女として働いていました。
当時浅草寺奥山の楊枝屋「柳屋」の看板娘柳屋お藤、二十軒茶屋の水茶屋「蔦屋」の看板娘蔦屋およし、と共に明和の三美人と謳われました。
お仙見たさに笠森稲荷の参拝客が増えたといいます。
お仙目当てに訪れても店には老齢の父親がいるだけになったのは、
明和7(1770)年2月でした。
どうしてか?何処に行ったか?
誰もわからなかったそうです。
実は幕府旗本御庭番で笠森稲荷の地主でもある倉地甚左衛門の許に嫁いだそうですが。
そのお仙を描いたのが春信、二人を記念して永井荷風が谷中の大円寺に碑を建てています。
しかしこの寺は何の関係もなく、実際の笠森稲荷のあった福泉院は明治に廃されています。
その 跡には明治26年(1893年)に功徳林寺が建立され、
境内に改めて笠森稲荷が祀られています。
「とんだ茶釜」は思いも掛けない大変良い物事を言います。
「笠森稲荷の鳥居に詩を書くお仙」
春信
瀟湘八景は中国で伝統的に画題になってきた8つの名所。湖南省で、南の瀟水が湘江に合流して、また他の川も流れて洞庭湖を作る、湖南省の景色。瀟湘夜雨、平沙落雁、烟寺晩鐘、山市晴嵐、江天暮雪、漁村夕照、洞庭秋月、遠浦帰帆の八景です。
浮世絵でもそれに倣って各絵師が様々に取り上げています。
磯田湖龍斎、鈴木春信、鳥居清長、勝川春章、歌川広重、そしてもちろん北斎も。
場面も瀟湘八景をもじった物や近江八景、長唄八景などバラエテイーに富んでいます。
春信の坐鋪八景は 行灯の夕照、ぬり桶の暮雪、鏡台の秋月、あふきの晴嵐、台子の夜雨、琴路の落雁、とけひの晩鐘
拭かけ帰帆と瀟湘八景をなぞってています。工夫も凝らしています。
例えば「琴路の落雁」、題名の琴路にかけて雁を琴柱で表現しています。
「台子の夜雨」はどうでしょう。髪を結うのと夜雨はどう繋がるのでしょう?
ピンとくるのが髪結新三。しかしこの頃には河竹黙阿弥はまだ生まれていませんので落語から題材を採ったのでしょうか。
春信の浮世絵を下地にしたのも見受けられます。清長の「風流座敷八景 手拭掛帰帆」。
春信の作品の裏焼きのようです。
逆に「行灯の夕照」は磯田湖龍斎の「行灯」の方が2~3年早いようです。
晩鐘は春信等は「とけひの晩鐘」ですが北斎は風鈴を選んでいます。
今日は西宮でコンサート、ついでに時間を作って「日本画の精華」をやっている大谷美術館へ。
が、振替休日で休館。ならばと西宮えびす神社をお参りしました。
その東門脇に小さく祀られているのが梅宮神社。何の神様かご存知でしょうか。
さすが西宮、お酒の神様です。ちょうど新酒が搾りあがる頃にほころぶ梅の花に因んでるのでしょうか。
今年は暖冬のせいか既に各地から見頃との便り、春めいてきました。
浮世絵師の中には名前に春が付く人が結構いますね。
歌川派の創始者は豊春。太田南畝曰く「役者絵は春章が五人男の絵を始とす」した勝川春章。その師匠は宮川春水。宮川派、勝川派には大勢います。この他岳亭春信 、北川春成 。恋川春町は住んでいた小石川春日町をもじったとか。
北斎も春郎を名乗っていました。そして忘れてならない錦絵の創始者鈴木春信。
春信の梅がらみの絵を3点、
バレンタインデーでもあるので寄り添う二人を。
「梅の枝折り」
「風流浮世寄花 新枕 初開梅」
Katsushika Hokusai (1760-1849)
Kisoji no oku, Amida ga taki [Amida Waterfall on the Kiso Road] from the series Shokoku taki meguri [A Journey to the Waterfalls of all the Provinces], signed Zen Hokusai Iitsu hitsu, published by Nishimuraya Yohachi (Eijudo), red kiwame seal, very good impression and colour, horizontal centrefold
Oban tate-e
UTAGAWA HIROSHIGE (1797-1858)
Tsuki no misaki [Moon Cape], from the series Meisho Edo hyakkei [One Hundred Views of Famous Places in Edo], signed Hiroshige ga, published by Uoya Heikichi, fine impression, colour and condition
Oban tate-e
Utagawa Hiroshige (1797-1858)
Asakusa, Kinryuzan [Kinryuzan Temple, Asakusa], from the series Meisho Edo hyakkei [One Hundred Views of Famous Places of Edo], signed Hiroshige ga and published by Uoya Eikichi, good impression, the snow rendered in gauffrage, slight fading, slightly stained at edges
Oban tate-e
Toshusai Sharaku (act. 1794-95)
The actor Ichikawa Yaozo III as Tanabe Bunzo in the play Hanayame Bunroku Soga performed at the Miyako-za in the fifth month of Kansei 6 (1794), an okubi-e on a dark mica ground, signed Toshusai Sharaku ga, censor's seal kiwame, published by Tsutaya Juzaburo, good impression, slightly faded, mica slightly worn
Oban tate-e
Suzuki Harunobu (1725?-1770)
Kakitsubata [Iris] - a lady standing over a child who has fallen asleep during a calligraphy lesson, signed Harunobu ga, very good impression, colour and condition
Chuban tate-e
Suzuki Harunobu (1725?-1770)
The second state of a design that was originally a calendar print for Meiwa 2 (1765), bears the name Kyosen and sealed Kyosen no in, a design of two ladies in a boat picking lotus flowers, good impression and colour, slight staining; and a design of a woman sweeping icicles from the eves of a house, signed Suzuki Harunobu hitsu, good impression, stained, rubbed and faded, soiled
Various sizes (2)
Tsukioka Yoshitoshi (1839-1892)
Fujiwara no Yasumasa gekka roteki zu [Fujiwara no Yasumasa Playing the Flute by Moonlight
雨中美人
鈴木春信
前回の続きで錦絵誕生の経緯を少し。
江戸も下って貞享2(1685)年、渋川春海によって初めて日本人による暦法が作られ、暦が改められました。「貞享の改暦」です。これ以降年中行事や吉凶などの歴注が統制されます。陰暦では毎年大小月が変わり、時には閏月が入ります。晦日の支払いなど日常生活に欠かせないため、月の大小だけを記した暦が普及します。粋な江戸っ子は単に数字を使うのは野暮と、趣向を凝らすようになります。さらに富裕層ではそれを年始の挨拶で交換するようになり、品評会まで催されます。その「大小の会」の中心人物だったのが旗本大久保忠舒(ただのぶ)。俳号巨川(きょせん)です。
彼は西川祐信のファンであり、祐信の直弟子だった鈴木春信を引きいれます。
江戸に戻った春信、最初は米沢町後に神田白壁町に引っ越し終の棲家とします。(時代は違いますが米沢町には歌川国直、小林清親が住み白壁町には重田蘭渓などが住んだことがあります。)
その町内にいたのが平賀源内。豊富な巨川の資金を元に二人で工夫を重ねます。彫りの天才遠藤五録、刷りの名人小川八調も加わります。その結果明和2(1765)年の年始の会に登場したのが「雨中美人」。多色摺り版画「錦絵」の登場です。巨川はその版木を版元達に売り、版元は重版し一般に売り出し錦絵は広まります。
「雨中美人」は乾してある着物に大小の月が書かれています。
明和2年の暦をもう2枚。
1枚目は女歌仙 「紫式部」。これは解り易いと思います。
今ひとつは作者不詳ですが「花売り」。小の月が隠されています。
明和2年は1,4,7,9,11,12月が小の月です。
千葉市立美術館館長の小林忠さんは、かっての春信展の解説で春信を
「絵筆を持つ詩人」、そして「白の魔術師」と評しています。
春信は版画において上質で厚手の奉書紙を使っています。
そのふっくらとして白い地をそのまま使い、
女性の肌、梅の花、そして降り積もる雪などを巧に表現しているからです。
特に夜の闇に浮かぶ白の美しさは格別です。
多色摺りを得て、逆に白の持つ表現力、何も書かない「虚」の重さを感じさせます
今日はお彼岸の中日。
お彼岸は仏教行事ですが日本独特のものとか。
てっきり宗教的に定められていると思っていました。
しかし実際は為政者の改暦により彼岸も変えられています。
江戸時代前半まで使われていた宣明暦・貞享暦では、彼岸の入りは春分・秋分の日から数えて3日目。寛政暦では昼夜等分になるようにそのつど決められていました。
天保暦から現在のようになったそうです。
先日のSpaulding Collectionを扱ったNHKスペシャル。
クローズアップされた3人の絵師、二人目は春信でした。
ボストン美術館には322枚所蔵されており、これは最多のコレクションです。
大和絵の修行のため上方で西川祐信に師事した春信、宝暦10年頃江戸に戻ってからはもっぱら版下絵や紅摺りの美人画を描いていました。
赤と緑の2色では人物を描くのが精一杯、背景は地のままでした。
そうする内、明和2(1765)年「座敷八景」シリーズを発表します。
錦絵の誕生です。
10色以上の多色摺りです。これにより人物だけでなくその背景も表現できるようになりました。
その前年明和元年の極端に色彩の淡い7枚の作品が確認されています。
普通墨で描かれる輪郭などに露草が用いられています。
水絵です。柔らかな印象をかもし出し、古典や故事を題材にした作品が多い事もあり、閑雅な趣を伝えています。昨年のギメ展での春信「汐汲み」を覚えておられる方も多いのではないでしょうか。
露草は劣化しやすく残る事が稀で、これまで知られていた絵は、帯の柄が消えたり当初の色調とは異なった状態の作品がほとんどでした。ボストンの所蔵品の保存状態の良さが、改めて絵師の意図を蘇えらせたようです。
露草といえば歌麿は紅を混ぜ独特の紫を使ったことが、以前のNHKスペシャルで紹介されたようです。
トップ画像、実らぬ恋と知りながら通う男の切なさが、一面の銀世界に表現されています。当初は鮮やかな全面の青がいっそう際立たせたことでしょう。
春信は色彩の多様さの可能性をこれらの水絵7枚で実感、錦絵へと発展させていったようです。
2枚目の作品は「近江八景之内 唐崎夜雨」。
これには水絵と紅摺り絵など異なる4つの版があるそうです
鈴木春信
「壺算」という落語があります。二荷入りの水がめを買いたい少し間抜けな主人公。買い物上手な兄貴分に応援を頼みます。兄貴分は何故かまず3円50銭の一荷入りの水がめを3円に値切って買います。一旦店を出て後間違えていたと今度は二荷入りの水がめを注文。二荷入りの壺は一荷入りの倍だから6円。うまく1円値切りました。そして支払った金が3円、3円の一荷入りの壺を引き取ってもらうから併せて6円、と話を付けようとする噺です。 「壺算」はもともとは建築関係の「坪算」。坪数を誤ることを云い、これが転じて商取引で先手を打たれて不利になる事、勘定あって銭足らずなどを意味するようになった。
江戸の下町は埋立地で浅井戸は塩分が多いため、生活用水はいわゆる水道井戸に頼っていました。その一つを担ったのが羽村の取水堰で多摩川の水を取り入れた玉川上水。四谷の水番所まで43km、標高差92m。すなはち1メートル当り2ミリの勾配という技術の高さ。その玉川上水が完成したのが1654年6月20日です。
その水道井戸も清潔さと味で今一だった。そこで飲用にはもっぱら天秤棒で商う水屋から買っていました。荷入りは水の量のいわば単位、画像のように前後2桶約4斗72リットル。 これで4文。江戸っ子が「1荷4文の水道水で産湯をつかかった」と啖呵を切るのはこれです。 「水や、よろしゅう」と声を出しながら売り歩き、留守中に補充したりとサービスもよかったとか。生活必需品のため休みはとれず 、80kgを担いで4文とは重労働ですね。儲けが薄いせいか上方の水屋は副業を持っていたとか。それが何故か葬儀屋です。そして多くの屋号は水熊、今でも大阪の東成区にあります。
これとは別に、夏遠い水源で汲まれた冷たい水に砂糖. と寒ざらしの白玉が入ったものが売られていました。
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