山東京伝、謎の「賛」 歌麿の定石外の肉筆画
江戸時代の浮世絵師、喜多川歌麿(1753?~1806)の肉筆画が新たに見つかり、福
岡市美術館(同市中央区大濠公園)で開催中の「肉筆浮世絵の世界」展(20日まで)で公開されている。「花魁(おいらん)と禿(かむろ)図」と題された美
人画は墨だけを用い、正面向きの人物を描いた。浮世絵の定石から外れたこの絵はなぜ生まれ、何を物語るのか。大量に印刷された版画(錦絵)とは違う「一点
もの」のこの絵に戯作(げさく)者の山東京伝(1761~1816)が書き添えた「賛」に注目してみた。
賛は鑑賞者が絵に書き加えた文章 のこと。大半が褒めたたえる内容だが、「京伝の賛は絵の美人と裏腹のようだ。なぜ、こんな賛を書いたのか」と鑑定した国際浮世絵学会の石田泰弘理事は首を かしげる。京伝の賛は遊女の言葉を用いて花魁の世界をあきれた所とし、容姿をちゃかして表現しているように読めるのだ。
親交が深かった京伝と歌麿の関係に着目し、石田さんは「モデルは京伝の妻、菊園では?」と推測、可能性を探っている。花魁の着物に描かれた菊が、菊園を暗示すると考えたからだ。
絵の制作は1790~93年ごろとみる。90年、京伝は遊女だった菊園を妻に迎えた。だが93年、菊園は若くして亡くなった。「定石通りの横顔ではなく、 正面の顔を描いたのはモデルが誰か伝えようとしたから。一般的な彩色画でなく、墨一色で描いた理由も、亡くなった菊園への哀悼と考えると説明がつく」と自 説を述べる。が、「花魁のモデルが妻だとすると、この賛はふさわしくないと思う。問題が解決しない限り特定は難しい」。
そもそも京伝は遊里(吉原)を舞台に遊女やそこに通う武士、町人を描いた小説で大評判を取った。吉原や遊女を褒めても、けなすことはないのでは?
これに対し、中野三敏九州大名誉教授(近世文学)は「けなしていない。絵を褒めた普通の賛である」と語る。「当時の文芸の趣向『見立て』を用いたもので、 吉原を外国になぞらえて描く手法はよくある。吉原は常識の通じない謎の異界で、花魁も人を惑わす存在だが一度のめり込めば抜け出せない魅力があると、京伝 らしい言い回しで表現している」。ストレートに吉原や花魁を褒めなかった理由は「寛政の改革と関係があるのでは」と指摘する。
老中松平定信が主導した改革で、風紀の乱れが厳しく取り締まられた。京伝も吉原を描いた過去の小説がとがめられ91年、処罰を受けた。深く反省した京伝は、吉原を舞台にした小説から徐々に離れてゆく。
高田衛東京都立大名誉教授(近世文学)は「賛には、処罰に対するざんげも潜んでいるのではないか」との見方を示す。字義通りに賛を読めば「吉原は謎めいた所」「花魁は国をも惑わす」と警鐘を鳴らしているようにも取れる。
京伝は92年、刑を終えたことの宣伝を兼ねて、自筆の書や絵などを販売する会を大々的に開いた。高田さんは、そこでこの絵が誕生した可能性に言及する。 「友人の歌麿が描いたのは、公儀への遠慮で、色彩は使わない墨一色の絵。そこに“吉原批判”を揮毫(きごう)し、観衆に見せれば反省の気持ちを広く伝えら れただろう」
京伝の賛は多様な読み方ができ、かえって歌麿の絵の「謎」を深めるようだ。だけど謎めいたものにひかれるのは、江戸の昔から人の常。花魁の微笑は200年以上たった今も、見る者を惑わせる。
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●山東京伝の「賛」全文
ヲ イラン界は馬鹿羅洲(ばからしゅう)アリンスの北にあり 一名を安藝連洲(あきれす)といふ 此國晦日に月出て四角の鶏卵を産す 國人晝(ひる)眠て夜寝 す 頭に鼈甲(べっこう)の如き角を生し 目は糸に似て口は剃刀(さすが)の如し 指にくろかねの輪をはむる 一たひ笑ふときは陽城を惑し下蔡を迷すとい へり 等間にして此の地に来る人は蝦蟇の井に落たるか如く再出ることあたはす ことは客物志に詳なり(「肉筆浮世絵の世界」展図録の解説を基に作成。一部 ルビを加えた)
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山東 京伝(さ
んとう・きょうでん) 江戸時代後期を代表する戯作者。娯楽本の黄表紙、遊里を描いた洒落(しゃれ)本、古典を基にした読本などの佳作を立て続けに出す一
方、浮世絵、図案(デザイン)、狂歌や俳句、広告文など幅広いジャンルで活躍した。たばこ入れを売る店も繁盛させた。喜多川歌麿とは、同じ版元から作品を
出すなど親交が深く、歌麿は浮世絵「山東京伝の店」「大名屋敷の京伝」を残した。2度結婚したが、ともに遊女出身だった。
=2015/09/16付 西日本新聞夕刊=
















































鍬を持つ美人図











NHKニュースが取り上げているようです。
江戸時代の浮世絵師、喜多川歌麿が女性たちをえがいた3部作「雪月花」と呼ばれる肉筆画を写した写真が、栃木市の住宅から見つかり、地元の人たちは、歌麿と栃木市の関わりを示す資料になるのではと注目しています。
見つかったのは、喜多川歌麿が江戸時代中期にえがいた「雪月花」と、呼ばれる肉筆画の3部作の写真です。
栃木市の国文学者、小林祥次郎さんの自宅に保管されていました。写真は古いアルバムに貼り付けられ、写真の横には、小林さんの父親が書いたとみられる撮影のいきさつも記されています。
いきさつには、明治時代に栃木市の豪商が絵を売りに出した際、小林さんの祖父が購入しようとしたものの、親族に止められてあきらめ、それを惜しんで写真を撮ったと書かれています。
栃木市の郷土史によりますと、歌麿は栃木市に滞在して「雪月花」をかいたという言い伝えがあるということで、地元の人たちは、歌麿と栃木市の関わりを示す資料になるのではと注目しています。
「雪月花」は、明治20年代に海外に流出し、3枚の絵のうち「月」と「花」はアメリカの美術館に所蔵されていますが、「雪」は所在がわからなくなっています。
調査にあたった市民団体の川岸等さんは、「歌麿と栃木とのかかわりを広く知ってもらうきっかけになることを期待しています」と話しています。
04月28日 21時16分